論に曰く。宿世における諸々の煩悩の位が、今世において果報が熟したものは、総じて無明と称される。それらは無明と同時に運行するが故に、無明の力によって、それらが現行するからである。例えば王が行幸する際、供奉を伴わないことはないが、王が全てにおいて勝れているが故に、王と供奉の行いを総じて王行と称する如し。宿世における福徳等の業の位が、今世において果報が熟したものは、総じて行と名付けられる。
釈して曰く、論では過去世における全ての煩悩の位が、現在に至って煩悩の果が熟したものは、全て無明と称されると説く。煩悩も煩悩の果も無明と同時に運行するが故であり、無明の力によって煩悩が現行するからである。例えるならば、王が行幸する際に供奉が随伴しないことはなく、王が一切の面で殊勝であるが故に、王と供奉の行いを総じて王行と称するようなものである。過去世において造られた福徳業が、現在善果として成熟したものは、全て行と称される。
初句の位の言は、老死に至るまで流転する。母胎等において正式に結生する時、一刹那の位における五蘊を識と名付ける。結生識の後、六処が生じる前、中間の諸位は総じて名色と称される。ここで説くべきは四処(耳・鼻・身・意)の生じる前であるが、六処と言うのは満位に基づいて立てた名称である。眼等が既に生じ、根・境・識が未だ和合しない位を六処と名付ける。既に三和(根・境・識)に至りながら、三受の因の差別を未だ了知しない位を総じて触と名付ける。既に三受の因の差別相を了知し、未だ淫貪を起こさないこの位を受と名付ける。
妙なる資具に貪着し、淫愛が現行しながら、未だ広く追求しないこの位を愛と名付ける。種々の優れた境界を得んが為に周遍的に馳求するこの位を取と名付ける。馳求するが故に、当来の果報を牽引する業を積集するこの位を有と名付ける。この業力によって此の身を捨て、正しく当来の有を結ぶこの位を生と名付ける。当来の生支は即ち今の識の生起する如く、刹那後に漸増し、遂には当来の受位に至るまでを総じて老死と名付ける。このような老死は即ち今世の名色・六処・触・受の四支に相当する。かくの如く十二支の体を弁別する。
問:我々の日常生活において、どのような現象が周遍馳求に属するのでしょうか。また、どのような現象が貪愛に属するのでしょうか。
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