衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月05日    水曜日     第1 回の開示 合計811回の開示

楞厳を用いて動中の定を修める

問:楞神を用いて動中の定力を修めることは、確かに善巧方便ではありますが、多くの者が楞神を持続させるのが難しいと感じております。弟子の体得するところでは、楞神を入口として用い、その後言語文字が心中に現れぬよう守り、それを看続け、保持しつつ徐々に訓練を重ねれば、楞神の持続時間は長くなります。これはまさに公案を見ることに他ならないのでしょうか。

答:この状態こそが言語文字なき状態であります。初めは短時間しか持続しませんが、不断の訓練により時間を延長でき、定力が深まれば、参究もより効果を発揮します。

この状態は単に公案を見ることに似ているだけでなく、実際には公案を参究することそのものであります。参究には意根の思量作用が働き、意識の分析は少なく、あるいは分析せず、意根の思量に協力させ、思量の任務を意根に委ねることで、ある時節因縁が相応すれば、意根と意識が同時に法を証得するのです。もしこのようにせず、意識が思考分析した後で意根に委ねても、意根は必ずしも承認せず、短時間では決して承認いたしません。これは意根の現量了別ではなく、意識も全ての証拠を提示しない不完全な現量了別であるため、意根はこれに相応せず、故に法を証得できないのです。

意根は智慧が強くなく、意識よりはるかに劣ってはおりますが、主導識たる存在であり、一切の法は意根が決定権を握っております。一家の主のように、他の家族より智慧は劣るものの、家中の事柄は全てこの者が決定します。この者に事柄を承認させるには、説得力ある理由と証拠を以て説得し、信じさせた上で決定させる必要があります。最善の方法は、自ら事柄を体得させ、現場に臨ませ、この目で見させることです。事実を前にすれば直ちに信じ、快く決断し承認するでしょう。

——生如法師の開示
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