末後の句は、生死の衆流を断ち切る句である。生死の流れとは何か、いかにして生死の流れを断ち切るか。末後の句を会得するには、まずこの問題を考えねばならない。初禅定を得た後、二果を証得し、如幻観と陽炎観を超えて初めて、末後の句を参究し始め、生死の牢関を過ぎて三果人となり、有余依涅槃を証得してこそ、三界の生死の流れを出る力が備わる。
末後の句に関する公案や文句は、全て暗号のように生死問題解決の鍵を示している。これは自ら参究すべきもので、他人に明言させてはならず、仮に明言されても自らは毫厘の利益も得られず、かえって自悟の門を塞ぐ。初禅定がなく、全面的な関門を過ぎず、煩悩を断じていない者には、参究して得ることは不可能である。前段階の基礎がなければ末後の句を理解できず、小乗では二果人でなければならず、大乗では如幻観と陽炎観を過ぎて初めて多少理解でき、さらに参究を進めるのである。禅定を修めなければ何らの法も証得できず、初禅定と陽炎観がなければ証得は困難で、その後様々な観行に至っては言うまでもない。
多くの法に対する自らの解釈がどの程度に至り、証得との距離がどれほどあるかを知らねばならない。ある法を早く解してしまうと、再び証得することが難しくなる。禅定などの因縁条件が整わない時は、包み隠して解しようとせず、さもなければ証得できなくなる。全てが解釈だけであれば、いかにして生死を断ち切れようか。解と解悟にはなお違いがあり、これらは自ら了解し、智慧による判断と選択を要する。仏法は決して曖昧にできず、毫厘の差が千里の謬りを生む、これほど厳しいものである。
5
+1