衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月17日    火曜日     第3開示 合計751開示

魔術師の比喩

ある手品師が空中に無数の色とりどりの天華を現じ、また天狗や天狗を現じました。問う:この手品師自体は真実に存在するのでしょうか。それとも方便として説かれた仮の存在で、実体のないものなのでしょうか。もし手品師が真実に存在し、如来蔵が真実に存在しないならば、万法はどのように現れたのか、まさに手品師如来蔵が現じたものではないでしょうか。如来蔵が真実に存在せずに一切の法を現じることは不可能です。存在しない人が食事をするのは論理に合わず、倉庫が存在しないのに無量のものを収蔵できるのも論理に反します。

「実体」の「実」とは、真実に存在することを意味し、虚偽や仮の存在ではなく、形ある相として見え触れられる実在とは本質的に異なります。見え触れられる「実」は仮の実相であり、真実の存在ではなく、幻化された仮の相です。それは見え触れられない実相の心によって現出されたものです。実相の心である如来蔵の「実」は見えず触れられず、相貌もありませんが、心体は虚妄なく存在し、真実の作用を有します。世間と出世間においてこれこそ唯一の実在であり、その他すべては虚妄です。

『楞厳経』において世尊が「猶お真ならず非真ならず」と説かれた意味は、衆生の阿頼耶識がまだ真実の我ではなく、完全に真実ではないことを指します。なぜなら心体にはなお七識が造作する生滅の種子が含まれており、種子にはまだ生滅性が残り、常楽我淨の我でもなく、完全に恒常不変の状態ではないからです。仏に成り無垢識に至って初めて真実の我となり、完全な真実となります。もはや種子の生滅変異がなく、常楽我淨の境地を成就するのです。

——生如法師の開示
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禅定力と神足通

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