衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年07月19日    木曜日     第1開示 合計752開示

禅定力と神足通

神足通を修習する際、座席に結跏趺坐し、意識で身体が座席から一寸浮かぶことを観想します。定力が十分に備わると、身体は実際に座席から一寸浮かび上がります。これを「心をもって身を挙ぐ」と申します。しかしこの身は意識が主体となって持ち上げたのでしょうか。そうではなく、意識では如何に思量しても無駄で、意根も同じように行いたいと思わせなければなりません。そうして初めて主体となって身体を持ち上げる方法が可能となります。つまり意識が観想する時、意根も同時に努力し、身体を持ち上げようとしているのです。

定力がない状態では、意根も主体となって身体を飛翔させようと望みますが、何故実現できないのでしょうか。禅定が不足しているか定力が不十分なため、意根の心力が充実せず、力が弱いので、如来蔵も助力できません。定あると無いとでは、意根の現れ方にこれほどの差異が生じ、力の差が顕著になるのは、定なき時は意根の力が満たされないからです。深甚なる禅定の中では、意根の種子が集中して流注し、その決択力と思惟力が強大となり、心に思うことが成就するのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

魔術師の比喩

次へ 次へ

識が塵に触れるとき、根・塵・識の三者が和合触し、その結果は何でしょうか。

ページトップへ戻る