神足通を修練する時、座の上で足を組んで座り、意識で身体が座から一寸離れるように観想すると、定力が十分であれば、身体は座から一寸浮き上がることができます。これを「心をもって身を挙げる」といいます。しかし、この身体は意識が主宰となって挙げたのでしょうか?意識ではありません。意識がどれほど思っても無駄で、意根にもそうしたいと思わせなければ、主宰となって身体を挙げることはできません。つまり、意識が観想している時、意根も同時に努力して、身体を挙げようとしているのです。
定力がない時でも、意根は身体を飛び上がらせたいと主宰することを望んでいますが、なぜ飛び上がれないのでしょうか?禅定がないか、あるいは定力が不足しているため、意根の心力が不足し、力が大きくないので、如来蔵 (tathāgatagarbha) も手助けができないのです。定があるかないかで、意根の表れがこれほど違い、力がこれほど違うのは、定がない時には意根の力が充実していないからです。そして甚深な禅定の中では、意根の種子が集中して流注され、その抉択力・思択力が大きくなり、思うことが思いのままに成就するのです。
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