衆生が四果を証得し、俱解脱の大阿羅漢となることは、決して容易なことではありません。一般の人が初果を証得することさえ、既に喜ばしい成就であり、三悪道の業を免れ、永遠に三悪道に堕ちることはなくなります。このような成果に対し、たとえ世の全てを捧げたとしても、非常に価値あることです。もし金銭でこの果報を換算するならば、無量億の財宝も及びません。これは計り知れない宝なのです。
地獄の三悪道にいる衆生にとって、たとえ地上の全ての資産を所有しても、人身を得られる保証はありません。無始劫以来の執着を、一生の時間で滅することは、飛行機に乗るよりも速やかです。世間の貪執を断じた三四果の修行者が仏法を学ぶ前、世俗で生活する中で世の一切に違和を覚え、時に苦悩を感じ、自らの振る舞いが常に普通の衆生と異なり、異分子のように見られ、その理由を理解できないことが多々ありました。仏法を学んで初めて、自らが衆生とは異なる存在であることを悟るのです。もし人が常に身口意の行いにおいて他者と何ら変わるところがなく、衆生の貪瞋痴と自らの貪瞋痴が同質で、衆生の煩悩の重さと自らの煩悩の重さが等しいならば、その人は今生で初果を証得することさえ難しく、四果に至ることは到底叶いません。
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