意根には自証分があり、法を了別することができ、心中に影像を有する、これが自証分である。意根は自らがどの法を知ったかを自覚できる、これが証自証分である。意根には自信満々の時もある、これも証自証分である。意根が自説に固執するのも証自証分である。頑固者、徹底的に固執し、自らの観点を変えようとせず、自分が正しいと信じる中に証自証分が存在する、そうでなければ固執も頑固も生じない。無夢の睡眠状態においても、意根は依然として法に触れて法を了別し、六塵を知覚し、六塵を観察できるが、意識は意根が実際に何をしているかを知ることができない。
証自証分とは識心の自己に対する内観であり、二禅定には意識が存在し、意識の見分・自証分・証自証分が全て存在するが、極めて微細であるため、智慧が不足している時は自らの見分・相分・自証分・証自証分の状況を理解できない。禅定に関する知識を多く学び、その後禅定に入って体得すれば、より多くを理解できるようになる。
意根には見分・相分・自証分・証自証分があるが、第六・七識が識を智に転じていない時はこれらの内容を区別できず、観察できない。地前菩薩にとって意根には証自証分が存在しないように見え、自己を反観できないが、地後菩薩は意根に証自証分が存在することを観察できる。ある深遠な法義は、仏陀が地前菩薩にも説かない場合があり、菩薩たちが理解できず誤解を生むことを懸念されるためである。
無夢の睡眠状態を理解するには、意識が覚醒時に参究しなければならず、意識は智慧を備えている必要がある。無夢睡眠時、意根は知覚を有し、六塵境界を知り、身根を知り、自己を知る。それは如来蔵が一切法を見る機能に依って、自ら一切法を見る機能を有しており、智慧がない時は如来蔵が見る法を自ら見る法と錯覚し、執着と攀縁を生じ、一切法を自己の所有と見なし、我・我・我と思考し続け、自我を維持し保護し、様々な利害得失を秤量する。身体に異変が生じた時、目覚めて対処すべきか判断し、決定を下し、自らの観点を持つが、多くは経験に基づくものである。
意根の我執は極めて包括的で、五識を我とし、意識を我とし、第八識を我とし、自らの機能を我とし、五根を我とし、六塵境界を我が所有とし、更に六塵以外の法までも我が所有と見做し、攀縁と執着を絶やさず、思考を続ける。
意識が如何なる法を思考・参究する時も、単独で作動するのではなく、必ず意根の協働作用を伴う。意識が意根を観察・思考・参究し、意根を探求する時、意根もまた意識と共に自らを探求するため、意根も自らを参究でき、遂には自らを観察できるようになる。
意識が遂に意根の存在を証得し、意根の作動を観察できるようになる時、意根もまた意識に随って自らの存在を証得し、意識と共に自らを了別できるようになる。宇宙器世間には意識が存在しないが、科学者は宇宙の事象を解明でき、地球の数千年・数万年にわたる事柄も探求できる。未来世には現在の意識は存在しないが、科学者は未来を予測できる。如来蔵の作動には意識が存在しないが、意識は如来蔵の深細な作動を観察できる。ならば意根の作動も、意識が観察・了知できるのは当然であり、意識が識を智に転じれば、何事も成し遂げられる。そうでなければ如何にして仏陀となることができようか。
5
+1