問:意根が我見を断じたのであれば、なぜ隔陰の謎が存在するのでしょうか。来世では再び我見を断つ必要がなく、そのまま無我の状態になるのではないでしょうか。
答:隔陰の謎とは、意識が新たに生じるもので前世の意識とは異なり、五蘊身を隔てているため迷いが生じ、前世の五蘊に関する事柄を知り得ないことを指します。一方、意根は生々世々を貫いて断絶せず、隔陰がないため迷うことなく、前世の人事物理を知ることができ、時には来世の人事物理をも知ることがあります。ただし衆生が通常知覚するものは六識に依拠しており、意根の知覚は六識を通じて表現されて初めて作用を及ぼします。
意根は言語文字と相応しないため、自らの知見を表現することができません。六識は言語文字と相応し、思考分析や推理判断が可能であるため、意根の多くの働きは意識(六識)を介して実現されなければなりません。したがって意根が何を知ろうとも、意識が必ずしもそれを認知するとは限らず、たとえ意根が極楽浄土を理解し、前世の全ての事柄を把握していたとしても、意識はそれを認識しない場合があります。
このため重大な事態に遭遇すると、意根は様々な方法で意識を警覚させ、意識に何らかの認識を持たせ、対応策を思考させる必要が生じます。例えば鬼神が身体の周囲に存在しても意識は感知できませんが、意根はそれを感知し、身体の痺れや違和感を引き起こすことがあります。すると意識は何か事が起こった可能性を感じ、状況を推測するに至るのです。
今世で初めて仏菩薩の御姿を目にする際、意根が生々世々にわたって仏法を信じ念仏し学んできたことにより、仏菩薩と特別な縁を結んでいる場合(これを善根深厚と言います)、思わず涙が溢れ激しく泣き崩れることがありますが、意識はその理由を理解できません。前世の親族と再会する場合も同様で、意識は認識できないものの、意根は認識しているため親近感と感動を覚えますが、意識はなぜそのような感動が生じるのか、特別な感情の由来を知ることはありません。
よって意根が今世で我見を断じた場合、来世の現れ方は常人とは異なります。しかし意識は新たに生じるもので隔陰の謎を有するため、前世で既に我見を断じたこと、五蘊が無我であることを認識できません。このため仏法に接すると再び五蘊無我を思惟しなければなりません。ただし意根が既に無我を証得し五蘊が無我であることを知っているため、意識が過度に思惟観行する必要はなく、速やかに五蘊無我を証得することになります。初めて聖果を証得する者に比べ極めて迅速です。三果や四果の聖者たちは、一言を聞くだけで即座に証果することが可能で、特別に思惟観行する必要がありません。これは意識による詳細な思惟を通じた意根への熏習が不要となり、煩雑な過程を省略できるため、証果が極めて迅速に達成されるからです。
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