衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月03日    火曜日     第3 回の開示 合計705回の開示

理解、証得、転換の三つの区別

五八の果上円とは、仏地に至って初めて五識を証得することを指すのではなく、仏の果位を成就する時に、五識と如来蔵が徹底的に転換され、究竟円満に識を智に転じることを説くものであります。いわゆる五識を証得するとは、五識を見出し知り得て、現前に五識を観察できる状態を指します。五識を証得することと五識を転換することとは隔たりが極めて大きく、五識の徹底的な転換は仏地に至って初めて可能となりますが、五識の証得は凡夫でも達成可能であります。住位の菩薩は如来蔵を証得できますが、習気の転換は初地の菩薩から始まり、その間の距離は甚だしく、一つの大劫に近い修行を要します。恰も眼鏡を探すが如く、眼鏡を発見したならば、即ち眼鏡を見出し証得したこととなり、手に取り現前に観察し、それを直視することができる、これが親証であります。

発見後に現前観察できる状態、これが証得であります。思惟によって得られたものは必ずしも証得とは言えず、現前観察ができなければ心中に確信を抱くことができません。現前に観察できるものこそが真の証得であり、心に確信が生じ、信心が具足するのであります。恰も如来蔵を思惟し理解することは、如来蔵を証得することではなく、自ら如来蔵を発見し見出すことが真の証得であります。何処に存在し、如何なる作用を現前しているかを観察できることが実際の証得であり、思惟や想像によって得られるものではないのであります。

迷える者こそ悟りを開くのであり、迷いがあってこそ悟りがあるのであります。七識に迷いが存在し、無始劫来無明によって自心を見失い、修行を通じて自心を取り戻すことにより、自我の覚醒を得るのであります。然るに如来蔵には無明がなく、元より迷うことはありません。悟りを開く必要のない存在であります。仮に如来蔵が悟りを開いたとしても、如来蔵が自らの存在を証得したとしても、七識は依然として迷いの状態にあり、無明を有したままであります。七識が悟りを開かなければ、依然として凡夫の域を出ないのであります。如来蔵は元より凡夫ではなく、また聖人でもなく、迷うことも悟ることもないのであります。

——生如法師の開示
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