衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月30日    火曜日     第2開示 合計3247開示

仏法は意根に薫習されてこそ用がある

証果の前には、仏法もすべて意根に薫習されなければなりません。意根が善法に薫習されれば変化が生じ、身心にも変化が起こります。証果の当下はなおさらのことで、それこそが三昧 (samādhi) 力と呼ばれるものです。 もし仏法を学ぶ過程において、意根に薫習されず、単に意識による知識の吸収と理解だけにとどまれば、意根は従来どおりのままで、身心世界の転変は起こりません。そうなると、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) と証果は遥か先の話になってしまいます。証果の前に意根を薫習したとしても、一定の程度に達していなければ、断我見して証果することはできません。したがって、身心の転変、身口意行の転変、断我見と明心見性のためには、いずれも意根を相当な程度まで薫染しなければならず、意根が少ししか変わらないのではだめなのです。脱胎換骨するには、意根を徹底的に転変させ、意根の煩悩による染汚心を除き、欲界の五品の思惑煩悩を断除しなければなりません。そうしてこそ、業種が第八識の中に存入され、後世において三悪道に堕ちず、人天の善道に往生することが保証されるのです。 また、意識による証果という頑固な態度を抱き、意根による証果という観念に対抗し、頑強に抵抗して融通が利かず、ひたすら意地を張る者もいます。まったく救いようのないことです。

——生如法師の開示
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命終時に善道に往生するか三悪道に堕ちるかは何によって決まるのか

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父子合集経講記(一七七)

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