衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月30日    火曜日     第1 回の開示 合計3246回の開示

命終後に善趣と三悪趣のどちらに往生するかは何によって決定されるのか

或る者は人が死ぬ時、自然に第八識が善処へ導くと説きます。しかし第八識が自然に善道へ導くならば、なぜ全ての衆生は無始劫以来、三悪道にいる時間が三善道より遥かに長いのでしょうか。第八識は何を根拠に衆生の意根を善道へ導くのでしょう。或る者は善法を薫習すれば第八識が善処へ導くと説きます。しかし善法を薫習する者は非常に多く、仏法を薫習する者も多く、正しい法理を薫習する者も多い中で、臨終の際に三悪道に入らず、第八識の導きで三善道に入れる者が果たして何人いるでしょうか。
第八識が意根を善道へ導く根拠は、第八識に蓄えられた善業の種子によって初めて可能となります。しかし第八識には無数の悪業の種子も存在し、これらは無始劫以来に造った悪業が未だ現行していない業種です。第八識は結局どの業種を根拠に意根の転生を導くのでしょうか。この問題は極めて重要かつ核心的な課題です。仏が経典において衆生が死後三悪道に入らないために必要な条件を保証されています。第一に阿含経で説かれる我見と三縛結の断除、第二に大乗経典で説かれる明心見性、第三に阿弥陀経で説かれる臨終における一心不乱の念仏三昧の修養、第四に観無量寿経で説かれる十六観のうち第三観以上の成就、及び九品往生それぞれの因縁条件、第五にその他の浄土経典で説かれる往生条件、第六に非仏教徒が死後天界に生まれるために必要な善業種の具足です。

これらの条件は、単に善法や仏法を薫習すれば三悪道を免れて善道に生まれるというものではなく、この一期の生命において造作した善業の勢力と悪業の勢力の大小、無始劫以前の重大な悪業種子の消滅状況、あるいは重大な悪業種子が現行する因縁の具足状況、臨終時における善業種子と悪業種子の勢力の優劣によって決定されることを示しています。強者が先に牽引する原理に従い、第八識は強力な業に随って衆生を牽引するのです。死後の趣向は善業力と悪業力の較量によって決定され、第八識が決定するのではありません。第八識はただ業種の力に随順するのみで、衆生の趣向を積極的に導く心はないのです。

無数の人々は正法と善法を縁として薫習しながらも、貪瞋痴の煩悩が依然として具足し、少しも断除も降伏もされていない状態です。これは明らかに煩悩業の勢力が依然強く、臨終には当然ながら煩悩悪業に牽引されて三悪道へ趣くことになります。無数の人々は善法を薫習しながらも、その過程で仏法僧三宝を誹謗する悪業を造作しています。この悪業は極めて大きく、全ての善業の薫習も三宝誹謗の悪業の力に抗し得ません。従って臨終時、第八識は当然ながら誹謗業の種子の勢力に随って意根を三悪道へ導きます。仮に現世で大きな悪業を造作しなくても、無始劫以前の悪業の因縁が成熟し、今世の善法薫習の善業力が不十分で因縁が未熟な場合、悪業の因縁を変えるに足らず、第八識は強大な悪業種子の因縁によって意根を三悪道へ導くことになります。

現世における善法薫習の力が微弱で、ただ意識が善法を理解しただけで、意根まで薫習が及ばず、意根が善法を証得していない場合、それは一切の身口意行の動力とは成り得ません。五陰身の一切法に変化が生じず、あるいは微小な変化のみでは煩悩悪業に対抗できず、このような薫習は無力で種子として第八識に蓄積されないか、僅かな種子しか蓄積されなければ、何の作用も起こせず煩悩業の勢力に対抗できず、後世の三悪道の運命を変えることはできません。五陰身の一切の身口意行は全て種子として第八識に蓄積されます。無数の人々は善法を薫習しながらも身口意行に変化がなく、依然として貪瞋痴の煩悩悪業を造作しているならば、第八識に蓄積されるのは貪瞋痴の煩悩業であり、臨終時には煩悩業の力が極めて強大となり、意根を三悪道へ牽引して善道に生まれることはできません。

五陰身の身口意行を主宰して造作するのは誰でしょうか。もちろん意根が主宰して造作します。もし衆生が現世で薫習した善法が意根に届かず、意根が仏法を証得していなければ、意根は善ならず、善業を主宰して造作することはなく、善業の種子は第八識心体に蓄積されません。そうなれば第八識がどうして意根を善道へ転生させることができるでしょうか。要約すれば、いかなる人が薫習した善法も、意根を薫染して成就させず、意根の煩悩染汚性を変えず、意根の心行を改めない限り、意根は依然として染汚業を主宰して造作し、染汚業は第八識心体に種子として蓄積され、後世の悪業果報を生じさせ、この人は命終して善道へ赴くことができないのです。

——生如法師の開示
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因縁果報もまた幻化した不実なるものである

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仏法は意根に薫習してこそ、初めて功徳を成す