煩悩性障は禅定を障げるのみならず、智慧をも障げ、智慧の光明が生起することを覆い隠します。壁が光明を遮るが如し、煩悩が除去され、遮障がなくなれば、第六識と第七識が識を智に転ずることができ、その智慧は広大無碍となります。煩悩習気の重い者、心の量が狭小な者は、深細なる仏法を観察することができず、仏法の表面を回るばかりで深く入ることができません。第七識は煩悩と習気に大きく束縛され、一つの我を中心に巡り、突破することができず、見る一切のものに我性を帯び、智慧が狭隘となります。これによって無我の智慧の広大さが明らかであります。されば我々は常に自らの心に我性があるか、不公平性を具えているかを観じ、我性や自己中心性を発見したならば、できる限り調伏する方法を講じなければなりません。これは仏心と一致せず、必ず道を障げるからであります。我性と道を比するに、牛毛と牛の関係の如く、これを除去して初めて牛を得ることができるのであります。
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