阿羅漢と縁覚仏たちは三界の世俗法を全て放下しました。その放下は徹底的でありながらも、彼らは依然として自性清浄心を悟ってはいません。彼らは行住坐臥の四威儀において、常に念想を起こしません。目で色を見る時、眼識が色に接触すると、そこで停止し、それ以上進行せず、受想行などの身口意の行為を生じさせず、ましてやこの色を分別せず、心を動かし念を起こしません。他の五根も同様です。六根が六塵に対し接触したら即座に離れ、心の清浄を保ちます。彼ら以上に修行を積んだ者はいないでしょうが、彼らが得られるのは小乗の涅槃に過ぎません。一方、菩薩たちは六塵の境界を恐れず、六塵が全て自心が変じた幻化相であることを明らかに知り、全く執着しません。六塵を用いるべき時にはそのまま用いますが、六塵は根本的に菩薩の心を侵擾することはできません。
故に悟道を究明し成仏するには、菩薩の法を修める必要があります。菩薩の六波羅蜜を修行し、福徳を備え、戒律を守持し、精進して般若の智慧を修め、相応する定力をもって公案に参究し、初めてあの心を悟ることができます。これが最も正しい道であり根本の修行です。
百尺竿頭の意味は、まだ竿の上にあり、世間法の頂点にある状態を指します。これは一切皆無の空に落ち着いた状態ですが、まだ究竟ではなく、さらに五陰世間の背後にある実質的なもの、五陰世間の虚妄なる存在を支え顕現させるものを探求する必要があります。ある者は内心に念想が無いことを以て空であると考えますが、これは実相の境界ではなく、一種の定境です。不生不滅で万法を生じうる真実の存在があり、それを証得しなければなりません。そのためには百尺竿頭の上に、更に一歩を進める必要があります。こうして真実の存在である空性心を証得すれば、空から有へと落着きます。本来無一物とは百尺竿頭にある状態を指し、後に応無所住の心を悟って初めて、この心が空ではなく万法を生じうることを知ります。これこそが実相を証するものです。
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