菩薩道の修行の道は長遠であり、一時の眼前の速さ遅さにこだわる必要はない。目標の達成は三つの無量劫にあり、三つの無量劫において最も速やかに仏道を完成させる者が優勝者である。ちょうど一万メートルの長距離走のように、どの智者が最初の100メートルの前後を気にするだろうか。体力に基づいて長期的な計画を立て、終点に優先的に到達することを根本とし、その他は重要ではない。
人に遠慮なければ必ず近憂あり。目標が長遠であればあるほど、智慧はますます広大に、胸襟はますます広博に、器量はますます雄大に、志はますます高遠に、脚力はますます力強く、信心はますます十分となる。一時の速さ遅さや勝敗にこだわってはならない。
今は末法時代であり、菩薩種性の人々はそれほど多くなく、優れた道器も少ない。したがって、速成による証果や明心を絶対に求めてはならない。ここ数年私が見てきた現象から警鐘を覚えたが、速成クラスは人々を害し、出てくるものは偽物ばかりで、仏教の正常な発展を阻害している。
多くの人が真の修証の着手処を見出せないのは正常な現象であり、その修証の因縁がまだ成熟していないことを示している。彼らが東にぶつかり西に突き当たりながら、次第に自らを成熟させ、善根福徳を増長し、禅定智慧を深め、菩薩の条件を整え、菩薩の心性と徳行を養っていく。最低限人としての徳行修養と人格を備えなければ、どうして菩薩として衆生を導けようか。衆生を泥沼に引き込みながら自覚せず、朱に近づけば赤く墨に近づけば黒くなるように、衆生は知らず識らず悪習に染まりながら、それを菩薩行と思い込む。この結果は実に恐ろしい。
観察するに、悟りを求める者の中には人柄が極めて劣悪で、人としての基本もできず、善人になろうともしない者がいる。もしそうした人々が修証の着手処を見出し、最終結果を知り、名ばかりの菩薩となったなら、今後仏教はどうなるだろうか。考えるだけで恐ろしい。
早く明心開悟し証果を得ようと焦る者ほど、悟るべきではない。このような焦燥感には不純な目的が伴い、菩薩心性が未熟で、無所求の心性が養われていないからである。こうした者が一旦悟れば、ますます有所求となり、名声や利養への執着が抑えられなくなる。よって修行に関しては、水到渠成、自然の成り行きを提唱する。因縁が成熟した者は、抑えようとしても抑えられず、自然に悟り、自然に菩薩となる。
速成による証果や明心は、福徳の蓄積が不足し、業障が未消滅で、煩悩が未降伏の状態である。一旦証果や明心に近づけば、業障が障りとなり、煩悩が現前して阻害し、数多の障害が生じ、菩提心や道心を退失しやすく、その後の修行が無力化する。よって因縁が成熟していない者を指導してはならず、未熟な瓜を摘むような行為は、人と己と仏教を害する。
仏教で速成クラスを開くならば、心性速成クラスと道心速成クラス、人間性速成クラス、禅定速成クラスのみとすべきで、証果速成クラスや明心速成クラスは絶対に不可である。もし心性が速成できず、人間性が速成できず、道心が速成できず、禅定が速成できないならば、証果や明心がどうして速成できようか。
これほど多くの人々が「修行の着手処が分からない」「参禅や明心の方法が分からない」「観行による証果の仕方が分からない」と訴えるのは、当然のことである。分からないのが正常であり、着手処がないのが正常なのだ。辛苦を重ねて時節因縁が熟せば、自然と全てが分かり理解できるようになる。
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