科学者たちが億万倍の顕微鏡や拡大鏡で物質を観察する時、それは勝義根の中の物質色法を観察しているのか、それとも勝義根の外側の物質色法を観察しているのか。もし科学者が観察しているのが勝義根の中の内塵であるならば、この内塵は何度もの転折変現を経て、眼識意識が知覚する極微細な粒子の波動状態となったのであろうか。
眼識意識が知覚した時点で、それはすでに内塵を知ったのであり、永遠に外塵を知ることはできない。観測機器そのものに了知性は存在しない。これが意識が観察結果に影響を及ぼすことの真意である。科学者が観測するのは内塵であり、外塵がどのような状態であるかは知り得ず、全く同じ状態であるはずがない。四大の微粒子が伝達過程で顕微鏡を通過し、肉眼を経て、様々な伝達神経を通り、最終的に勝義根に到達するまでに、各工程で一定の阻害が生じ、四大微粒子は徐々に変化を遂げる。勝義根に到達するまでにどれほど変化したかは、我々には判然としない。
中間の工程が多ければ多いほど、変化も大きくなる。十層のガラスを通過する場合と、ガラスを通さず眼根で直接知覚する色法には、確かな差異が生じる。興味ある方は試されるとよい。外塵の本質境が各層のガラスレンズを通過する際、四大微粒子は常に変化を起こし、ガラスレンズは比較的粗大な粒子を遮断・濾過し、最も微細な粒子のみが各層のレンズと眼根の硝子体、そして伝達神経を通過する。その過程で色彩は変化し、物質の形態なども変容し、精細度は低下する。もしレンズが無色ではなく彩色されていれば、四大微粒子が通過する際に遮断・濾過される粒子は更に増加し、たとえ異なる種類の無色レンズであっても、四大微粒子が受ける阻害はそれぞれ異なり、最終的に勝義根に到達する粒子が形成する影像には差異が生じる。
研究を重ねるにつれ、意根は物質色法に対して虚妄を感じるようになるのか。意識の研究と意根の認識は決して同期せず、意識が証明しても、意根は同時に証明できない。定観行を修することによって初めて、意根は認証を与えるのである。
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