衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2018年06月17日    日曜日     第3開示 合計648開示

如来蔵はいかに業行を記録し業種を出力するか(九)

ポンプは水を送り出した後、必ず金剛沙を一緒に運び出し、砂土や泥、腐った草のようなものを水と一緒にポンプから送り出さなければなりません。送り出された後、この水は清浄 (viśuddha) なものと染汚なものとに分かれます。私たちの身口意行も同じように、如来蔵 (tathāgatagarbha) が収蔵した業種を送り出すとき、必ず清静 (praśama) 性と染汚性を伴っており、業種そのものがもともと善悪と染汚とに分かれているのです。私たちの六識の身口意、あるいは第七識の意根の心行は、善悪性を帯び、清静 (praśama) 性と染汚性を帯びており、それから造作し、さらに貯蔵します。もしすべて悪業を造作すれば、衆生は生死輪回の苦海から脱することはできなくなります。

もし私たちの業縁が比較的よく、一定の福德があれば、善縁に出会い、身口意はそれに従って善業を造作し、同時に意根をさらに薫染し、意根の染汚性を転換し、種子は汰換され、心地は次第に清静 (praśama) になっていき、将来には善報を得ることになります。六識が良い縁に出会い、清浄 (viśuddha) な外部環境に出会うと、ちょうどポンプが水を金剛沙のあるところ、珠宝のあるところに送り届けたようなもので、水流は金剛砂や珠宝をいくらか巻き込んで戻り、砂土や腐った草をいくらか捨て去り、水中の内容物に変転が生じます。私たちの六識が清浄 (viśuddha) な環境、善い境界に出会えば、清浄 (viśuddha) で善い業行を造作し、識の種子は清浄 (viśuddha) で善い業行を如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に持ち帰って貯蔵し、将来には善報を得ることになります。

もし善縁がなく、六識が出会う環境が良くなく、境界が不善であれば、私たちの六識は悪い環境に従って、貪瞋痴の悪行を造作するかもしれません。すると悪業は記録・貯蔵され、将来には出力され、悪い果報を受けます。ちょうど水流が再びそれらの砂土や汚物を運び戻し、汚物がますます多くポンプの中に貯蔵され、再び出力するときには、すべてが汚物であり、すべてが汚染であるようなものです。私たちの身口意行の造作がますます染汚していけば、業種はすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に貯蔵され、送り出されるものはすべて染汚であり、悪報を受ける結果しかなく、善報を得ることはありません。そうなると、生死輪回の中で、きわめて苦しい生き方をすることになります。

私たちは如来蔵 (tathāgatagarbha) が業種を記録し、収蔵し、出力する全過程を了知したのですから、身口意行を慎重に造作しなければなりません。もし私たちの心行に貪瞋痴の煩悩があり、きわめて悪劣なものであれば、それは悪業の種子として貯蔵され、縁が熟すれば悪報、染汚な果報を受けなければなりません。瞋には瞋の果報があり、貪には貪の果報があり、愚痴には愚痴の果報があり、業行を造作した以上、必ず相応の果報があります。業因果報は毫も遺漏することがありません。なぜなら、一切の行為造作はすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存在し、神様は遅かれ早かれいつの日かそれを送り出してくれるからです。永遠に如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存在し続けることは不可能であり、送り出される時こそ、悪報を受ける時なのです。

ですから、私たちが身口意行を造作するときは、必ず慎重に慎重を重ね、用心に用心を重ねなければなりません。身体が何を造作するか、必ず慎重に思惟しなければなりません。口が何を言うか、必ず慎重に思惟しなければなりません。心が何を思うか、必ず慎重に思惟しなければなりません。むやみに注意せずに悪い身口意行を造作し、自分に悪い果報をもたらすようなことはしてはなりません。それは損のほうが大きく、割に合わないものです。たとえ不可意な悪劣な境界に出会ったとしても、できる限り忍耐し、仔細に思惟し、慎重に行動し、悪劣な境界に転ずることなく、自心をしっかりと把持し、悪行を造作しません。意根が善縁によってある程度薫染された後は、どんな悪い境界に出会っても、悪業行を造作しなくなります。そうなれば、それこそ良いのです。

——生如法師の開示
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如来蔵はいかに業行を記録し業種を出力するか(八)

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初地の後、意根の心所法もまた漸次完善していく過程を経なければならない

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