衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月02日    金曜日     第5開示 合計3262開示

父子合集経講記(一八四)

どのようにしてより多く解脱の機会を得るのか?

業行は東方・南方・西方・北方・四維・上下・中間に依って住するものではない。業が消滅し存在する場所を見出すことはできない。もし業行を保管する場所があれば、それは困ったことである。どこかの場所にこれらの業が貯められていれば、遅かれ早かれいつの日か爆発して現れる。業が誰の身に付いたら、その人が不運に見舞われる。業は保管される場所がなく、来るに蹤なく、去るに影もない。業行は保管される場所がないとはいえ、寿命が終わる時には、この一生に造った業がすべて心の中で素早く点滅のように過ぎり、意識心はすべて感じ取ることができ、すべてはっきりと分別することができ、心の中ですべて了知し、一つも見逃すことがない。その時になって初めて、自分がどこへ行くのかが分かる。それゆえ、心の中で親族が自分を業障の中から解脱へと導いてくれることを強く願うが、その時にはすでに言葉を発することができず、表現することもできない。中陰身になって親族に伝えたいと思っても、陰陽は隔たり、意思疎通ができない。二つの世界に生きる者同士は、言葉が通じないのである。

識が滅した後、この一生は終わりを迎え、人生というこの一場の夢にピリオドが打たれる。今考えてみると、現実の生活も本当に夢の中にいるようである。六識が滅した後は、業に随って流転する。意根が五陰の身を欲するため、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) がそれに配合して中陰身を現起する。極めて善い者と極めて悪い者には中陰身がない。極悪の人は地獄に堕ちるが、中陰身はなく、こちらで息を引き取ると同時に、地獄の身が現起する。極めて善い人が死ぬと、天人の色身が現起し、直接に天に生まれて福を享受する。地獄の身が一旦現れると、たとえ悪業を造ったことを悔いて懺悔し償いたいと思っても、機会はもうない。中陰身の中であればまだ懺悔でき、親族たちも何とか償いの手助けができるかもしれないが、中陰身がなければどうすることもできず、業種は定まってしまう。ただし、非常に悟りの高い人がいて、地獄の中で地獄の身のまま懺悔し、その力が十分に大きく、心力が非常に強ければ、地獄を出ることもできる。また、福報が大きめの人であれば、死んだ後、地蔵菩薩が地獄の門の前で待っていてくれ、懺悔あるいは仏法の中の偈頌を教えてくれる。それに従って共に念誦することができれば、地獄の業を消し、地獄を出ることができる。菩薩戒を受けた者が、もし地獄に堕ちた後、自分がどの戒律を犯したのかを知り、心の中で一たび懺悔すれば、それによっても業を消して地獄を出ることができる。

だからこそ、私たちは日頃の修行において、多く福を積み、多く智慧を修めるべきである。そうすれば、悪報を受ける時に、解脱の機会が数多く得られる。恐れるのは福德が欠けていることで、法を用いることができず、自分の業行を懺悔することを知らないことである。多く経を聴き法を聞けば、解脱の智慧をより多く得ることができる。

——生如法師の開示
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