意根の無明は、意識に智慧がないからではなく、まさに意根の無明によってこそ、意識に智慧がないのです。したがって鈴を付ける者は意識ではなく、鈴を解くには意識が必要であるにせよ。意根の無明は無始劫より前から存在し続け、一度も明らかになったことはありません。最初の時、如来蔵と意根のみが存在し、意識はありませんでした。それならば、どうして意根の無明が意識の過ちであり得ましょうか。意識の無明こそがまさに意根の過失なのです。
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