法を観察することにおいて最も究竟なるは仏であり、菩薩が悟りを開いた後の観察でさえも徹底的究竟には至らず、その程度は不十分であります。故に菩薩の証悟は無数の段階に分かれており、一切の法を瞬時に悟ることは不可能であり、また最も徹底的に悟り得ることも叶いません。
菩薩の福徳が異なり、禅定が異なり、智慧が異なることにより、悟りの段階も異なります。ある時点に至り、もし菩薩が四禅八定を修めなければ、以降の法を悟ることはできず、制限を受けることとなります。極めて多数の仏法は依然として極めて深甚なる禅定を通じて悟られるのであります。
一部の人々は特に禅定の作用を否定しようとしますが、菩薩が禅定を修めなければ、道業は根本的に進展せず、ある位階に停滞し、ある段階に留まり、突破することができません。微細な法や極めて微細な法は必ず禅定と神通の配合があって初めて証得し得、完全に証得できるのであります。甚深なる智慧もまた極めて深甚なる禅定と神通の配合の下に証得されるのであります。
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