万般のものは持って行けず、ただ業のみがついてくる
仏は「この世からあの世へと持って行けるものは微塵もない」と説かれた。我々は仏の言葉を信じ、この世では何も持って行けず、ただ業だけが身についていくことを知っている。そうであるならば、我々はこの一生でいかに善業を多く持って行き、悪業を持って行かないようにすべきかをよく考えねばならない。仏法に出遇い学び修行する縁を得たからには、仏法を学ぶ機縁を大切にし、福業を多く作り、善法を修め、一心に仏法に励むべきである。世間のことはほどほどに済ませ、より多くの善業の種子を未来世に持って行き、将来多くの善い報いを受けられるようにすべきである。
しかし善業も悪業も、その本性は空であり、主宰するものはなく、生滅を繰り返す。生ずるにも来るところがなく、滅するにも去るところがなく、幻のごとく実体がない。例えば私が刀で人を殺す場合、この行為以前にはこの業は存在せず、来るべきところもない。この行為を作り出すにも作り手はおらず、表面的な現象は魔術師が幻化したように、業を作る者はいない。人を殺す行為は色身と識心が和合して働き出したものであり、色身は虚妄、識心も虚妄で、実体あるものではなく、五陰の行為は真実ではない。さらに人を殺す行為は現れた後、刹那に消えて跡形もなくなる。したがって行為そのものは空であるが、業の種子を残す。
業の種子自体も空であり、来るべきところなく、滅するにも去るところなく、無から無へと至る。報いを受けた後、業の種子も跡形もなく消滅する。業の種子も空であり虚妄である。もし業の種子が虚妄でなければ、報いを受けた後、あるいは懺悔した後も消滅すべきではない。もし業の種子が消滅しなければ、衆生は永遠に報いを受け、際限なく、人を殺した者は永遠に地獄で報いを受け、永遠に人に殺され続け、終わりがないはずである。ゆえにすべての罪福の業は虚妄であり、来るべきところなく、去るべきところもないと言える。そうではあるが、すべての福業は終に衆生を次第に成仏へと向かわせ、ついに仏果を成就させる。すべての罪業は終に衆生に尽きることのない苦しみを与え、嘆きを止めない。分析を重ねてみると、ただ阿頼耶識のみが真実不変であり、不生不滅で永遠に存在する。それ以外のすべての法は空であり、幻化であり、刹那刹那に生じ、刹那刹那に滅する。その生滅は稲光よりも速い。
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