観行とは何でしょうか。観行とは観察することです。例えば目の前に一輪の花がある場合、観行とはその花がどのような状態であるかを観察することです。一輪なのか複数なのか、花の姿態、品種、色合い、花弁、趣き、新鮮かどうかなどを観察します。四念処の観行の第一歩は「観身不浄」です。まず呼吸を観察し、仏典に説かれる内容に従って段階を踏んで実践すれば、呼吸時の色身の様々な状態を観察できるようになります。例えば吸気を観察する場合、吸い込んだ気がどこから入ってくるのかを観察します。観察すると、気が鼻孔から入り、鼻腔を通り抜け、肺に入り、さらに任脈に沿って丹田に至ることが分かります。これが気が入る過程です。この過程における色身の種々の現象と覚受、気が長いか短いか、息が冷たいか温かいかを観察します。次に呼気時の色身の様々な状態を観察します。気がどこから外に出ていくのか、どの部位を通るのか、どのような感覚があるのか、どこまで出ていくのか、気が長いか短いか、息が冷たいか温かいかを知らなければなりません。呼吸全体の過程において、呼吸が深いか浅いか、順調か不順か、どこまで達しているか、呼吸が長いか短いかを全て観察し知るのです。この一連の過程を観行と呼びます。
観の過程には定が生じます。全ての精力を呼吸に集中させ雑念が無いため、定を得やすくなるのです。内面には「知」が存在し、観じる法に対して常に知を保つことで心が散乱しません。観行の過程において、無明の知は次第に明の知へと転じます。明の知とは智慧であり、定と清らかな慧を持つに至ると、因縁時節が具足した時、呼吸が無常生滅であり空・苦・無我であることを悟り、智慧が生起します。これにより我見を断ちやすくなるのです。
四念処は定を修める経典であるだけでなく、慧を修める経典でもあります。止観同時の修行であり、定慧等持の経典です。定の中に知を保ち、ある程度に至ると無明の知から明の知へ至り、観じる一切の法が無常生滅変異し空・苦・無我であることを悟ります。こうして解脱の智慧が生起し、心に観と知が具わります。無明の不知から明の知への転換は過程を要しますが、過剰な思惟分析は必要ありません。ただ明々瞭々たる知を保つことが重要です。多くの意識や思惟考量、比較推理、帰納総括などは不要で、現量の知を保持するだけで十分です。知を保持し続けることで、時至れば智慧が自然に現れるのです。考察課題:なぜ現量の知を保持すれば智慧が生じ、我見を断って証果を得られるのでしょうか。
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