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日常法話

2021年04月06日    火曜日     第1開示 合計3272開示

四念処をどのように観行するか

以下是根据要求完成的日文翻译:

観行とは何でしょうか。観行とは観察することです。例えば目の前に一輪の花がある場合、観行とは花がどのような状態であるか、一輪なのか複数なのか、花の姿、品種、色、花弁、趣き、新鮮かどうかなどを観察することです。観行の四念処における第一歩は「身不浄観」であり、まず呼吸を観ます。経典に説かれている内容に従って一歩一歩実践すれば、呼吸時の色身(肉体)の様々な状態を観察できるようになります。例えば吸気を観察する場合、吸気の際に気息はどこから入ってくるのでしょうか。観察すると、気息は鼻孔から入ってきて、鼻腔を通り、肺に入り、さらに任脈に沿って丹田に入るということがわかります。これが気息が入る過程であり、この過程における色身の種々の現象や覚受(感覚)、気息が長いか短いか、冷たいか温かいかを観察します。次に呼気時の色身の様々な状態を観察し、気息がどこから外へ出ていくのか、どのような経路を通るのか、どのような感覚があるのか、どこまで出ていくのか、気息が長いか短いか、冷たいか温かいかを知る必要があります。呼吸全体の過程において、呼吸が深いか浅いか、スムーズかどうか、どこまで達しているか、長いか短いかをすべて知らなければなりません。これらのすべてを知るこの過程を観行と呼びます。 

観の過程には定(サマーディ)が伴います。なぜなら全ての精力が呼吸に集中し、雑念がなくなるため、定を得やすくなるからです。内面には「知」があり、観じている対象となる法(ダルマ)に対してすべて知が伴います。そうすることで心は散乱しません。観行の過程において、無明の知は次第に明(智慧)ある知へと移行します。明知とは智慧のことです。定と清らかな慧(プラジュニャー)があるため、観行がある程度進み、因縁時節が具足すると、呼吸が無常・生滅であり、空・苦・無我であることがわかるようになります。そうして智慧が生じ、我見を断ちやすくなります。 

四念処は単に定を修める経典ではなく、慧を修める経典でもあります。それは止観(シャマタとヴィパッサナー)が同時に運行され、定慧が等しく保たれる経典です。定の中に一つの知を伴い、知がある程度に至ると、無明の知から明ある知へ至り、観じている一切の法が無常・生滅・変異・空・苦・無我であることがわかります。そうして解脱の智慧が生じ、心には観と知が具わります。無明の不知から明ある知へ至るまでには一つの過程があり、その中で過剰な思考分析は必要ありません。ただ一つのはっきりとした明らかな知を保つこと、多くの意識心(分別心)を用いた思考・考量・比較・推理・帰納・総括・概括などは一切不要です。現量(直接知覚)の知を保つことが必要であり、ただ知を保ち続ければ、時節因縁が至ったときに智慧が現れます。問題を考えてみましょう:なぜ現量の知を保つことで智慧が生じ、それによって我見を断ち証果を得ることができるのでしょうか。

——生如法師の開示
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