心王は主であり、心所は従者で、主の作用である。心王は刹那ごとに心所法の形で運行し、心所法を離れることができない。心所法が心王を離れれば、存在も運行も不可能となる。心王が現れる時、それは心所法の形で運行する。心所法の運行がなければ、心王も存在しない。五遍行心所法は八識の刹那にも不可分であり、他の心所法は時折心王に随伴して運行する。心所は心王の杖のようなもので、心王は皇帝に喩えられ、心所は黄袍や冠の如し。
識心の運行とは心所法の運行であり、心所法がなければ識は見られず、心所法の運行を見ることは識を見ることに等しい。作意・触・受・想・思の心所法は、八識が縁となる境に生じる識別作用である。心所法は八識の道具であり、心王は常に道具を必要とする。人が歩むに足を用いる如く、足がなければ歩めない。八識は身体に喩えられ、心所法は両足の如し。身体が歩むに足を用いる如く、八識が運行造作するには必ず心所法を用いる。
心王と心所の関係を理解しやすくするため、八識を色身に喩え、心所法を眼・耳・鼻に喩えよう。色身が活動するには眼・耳・鼻などを必要とする如く、如来蔵が運行するには心所法を必要とする。或いは心王をロボットに喩え、心所法をロボットの四肢に喩えよう。ロボットが作動するには四肢を必要とし、四肢が動けばロボットの存在と作動が示される。
五遍行心所法は如来蔵と最も密接不可分で、刹那も離れない。五別境心所法はこれに次ぎ、別々に現行し常時出現するものではない。善十一心所法は時々現れ、煩悩心所法も同様に時々現れて最終的に滅する。心王が運行する際、毎刹那に五遍行心所法を用い、時に五別境と善十一心所法を用いる。煩悩心所法は各心王に必ず存在するわけではなく、如来蔵は本来煩悩心所法を具えず、七識の煩悩心所法は修行を通じて最終的に滅尽する。
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