公案に参究し、それを透徹すれば自ずと心が明らかに開悟し、般若の大智慧を得て、真に菩薩の実証量を具えた菩薩となるのである。この般若の大智慧を獲得するのは、菩薩の六波羅蜜を修行した結果である。それゆえ公案参究に臨む前に必ず菩薩の六波羅蜜を修め、これを具足せしめねばならない。もし戒律を受持せず、布施という菩薩の福徳を具えず、修行の精進力が足りず、世俗の境界に対する忍辱が不足し、如来蔵の法に対する信受が不十分で、禅定も修得せず、如来蔵の般若の理も充分に理解していなければ、公案参究は苦悩の種となり、一生をかけても依然として徒労に終わるであろう。
真の菩薩となる前に、自らの心の行い・心性・心量が菩薩と相応しているか、菩薩の大業を担えるかを点検せよ。禅定が不足しているならば、いわゆる公案参究も単に言葉の頭を繰り返す文字遊びに過ぎず、心は一言の先頭に留まることができず、言葉の裏表に迷うばかりである。このような修行に何の意義があろうか。仏法を学ぶ者が修行する際、全て自己のために行い、利己的な心理に囚われて、少しも他者を利する心がなければ、このような狭隘な自私心は決して菩薩の心性と相応せず、菩薩が具えるべき福徳も積み重ねられず、真の意味での菩薩とはなり得ないのである。
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