凡夫にとって、如来蔵には自らを省みる機能が存在しないため、それは証自証分を具えていないと説かれます。証自証分とは、自己の存在を証明し、自らの存在と作用を感知する働きを指します。自らの存在を感知し得る心は我執を有する心であり、自己を認識する心、すなわち自証的に存在を確認し得る心であります。
意識心は法塵を観じ、境界を観察し、五識と第七識を観照し、明心後に如来蔵を観ることができます。意識心はまた自らを観照するため、自証分のみならず証自証分も具えており、法塵の境界を了知している自らを認識し、自らの運行状態を悟り、自らの心行を了知し得ます。これに対し真覚たる如来蔵には我性がなく、無我の心であり、常に自らを実体と認めず、自らの存在を感知せず、主宰的働きも行わず、六塵を観じません。従って如来蔵は六塵の領域において自証分と証自証分を有さないのです。六塵を覚知しないが故に、境界に対し心を動かさず、想念なく、知見なく、清浄無垢で、煩悩も習気もなく、無明を離れています。
明心悟道の後、智慧が増長するにつれ、第七識と如来蔵にも証自証分が存在することを観じ得ますが、それらは六塵の境界において自らを反照しません。大乗仏法を学ぶ総括的な原則として、如来蔵は五蘊十八界に属する世俗の心ではなく、我執なき心であり、我と我所の存在を認めません。これに対し七つの識心は全て我執を具え、常に我如何と説き、我と我のものを語り、我執と我所執を有するのであります。
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