ある人々の意識の高まりは八地菩薩の境地に達することがあっても、意根の修養は依然として凡夫の境界に留まっています。なぜこのような大きな差が生じるのでしょうか。それは常に禅定を修めず、定中で意識が粗雑に理解した内容を仔細に思索せず、定中で意根を陶冶しないためです。意根は従来通り無知のままであり、その全ての行為は意根の無知に相応するものとなり、意識が語ることは永遠に実現できません。
ここに禅定の重要性が明らかです。禅定は意識と意根が交流する場であり、意識が意根に理論的知識を伝える橋梁であり、意識が意根にデータ資料を提供する経路であり、意識が意根に証拠を提示する場所であり、意根が薫陶を受け道理を悟るために不可欠な養分であり、意根を調伏する安神丸であります。
仏の説かれた戒・定・慧の三無漏学は極めて重要な意義を有しています。仏は我らを欺かれる方ではなく、真実を語る者、虚妄なき者、矛盾なき者であられ、仏は大智慧無量智慧無上智慧の集大成者です。仏語を信受すれば、必ず成仏するのであります。
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