如来蔵の見分とは、衆生の根身器界に対する了別性であり、如来蔵は意根である末那識の作意と思という二つの心所法を了知することができる。了知した後、意根に配合して三界世間のあらゆる法を現起させる。したがって、もし意根がなければ、如来蔵は一切の法を運転して出生することができない。如来蔵の見分はまた、衆生の根身器界と業種を了別することにも現れており、如来蔵には極めて多くの見分がある。具体的な六塵境界以外は、すべて如来蔵の見るところである。如来蔵の相分には、外六塵と内六塵、および衆生の五陰身、宇宙器世間、七識心が含まれる。
如来蔵の自証分とは、如来蔵が自らその了別対象を証知できることであり、すなわち如来蔵の見分が意根と根身器界を了別した後、如来蔵には「知」が生じる。この「知」が自証分である。よって如来蔵には知があり、六塵に対しては無覚無知であるが、その他の法についてはすべて知ることができる。如来蔵の証自証分は、地上菩薩の現観智慧によって観察すると、如来蔵は自らがすでに意根の心行を了知し、すでに根身器界を了別し、すでに業種を了別したことを証明できる。すなわち如来蔵は自らの運行状態を反観し、自らが何をしているかを反観できる。これが如来蔵の証自証分である。
如来蔵は六塵に対しても、なお覚知がある。ただその覚知の方式・方法と内容が七識と同じではなく、意識は如来蔵のそのような覚知性と内容がいったいどのようなものかを了知することはできない。なぜなら根身器界もまた六塵に属するからである。
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