四分とは見分・相分・自証分・証自証分を指します。八識において、第六識のみならず証自証分を有し、第七識もまた証自証分を具え、第八識如来蔵も証自証分を備えています。八識すべてに四分が具わるのですが、観行の能力がなく実証できない者に対しては説かないだけです。多くの深甚な法に対し、仏は信根が備わらず智慧力の不足する者には、あるいは説かず、あるいは方便を用いて曲がりくねった説き方をするのであって、直接には説かれません。直接説けば衆生が理解できず、徒らに疑心を増長させるからです。
修行が深まるにつれ、煩悩を降伏し断除し、智慧力が絶えず向上するに従い、八識は識性を強めるだけでなく、智性もますます強く深まって参ります。各人の第七識の機能は絶対に同一ではなく、つまり心所法は決して同じでないのです。これが修行する者としない者の違い、修行の善し悪しの違いです。
修行が深まるにつれ、第六識に変化が生じるだけでなく、第七識の変化もますます大きくなります。主たる現れ方は心所法の転換にあり、識心の智慧に表れるのです。つまり修行成就の証は識を智に転ずることにあります。たとえ入地まで修めていない者でも、その識心の智慧は凡夫とは異なり、密やかに転換を続けているのです。ただ衆生に観察する能力があるか否かだけの問題です。観察能力がなければ、その識心の智慧性がまだ不十分で、覆い障りがあることを示します。観察能力がなく信根も足りない者に対し、もはや深甚な法を説くことはできません。
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