習気の消除は、明心見性の修行が初地の菩薩に至ってから八地の菩薩に至るまで続きます。まず明心見性し、次に煩悩を断除し、その後初めて煩悩の習気を断除できる。これが修行の次第です。煩悩は見道の智慧に禅定を加えてこそ断除でき、智慧なく禅定なき者は煩悩を断除できず、まして煩悩の習気を断ずることはできません。
もし明心見性を明かりを灯すことに喩えるなら、これはただ小さな灯りを点けたに過ぎず、まだ十分に明るくはありません。仏となる時の最後の明心見性こそが最も輝かしく、全ての灯りが開かれるのです。もし明心見性を夢から覚めることに喩えるなら、初めの明心見性はまだ夢から完全に覚めたわけではなく、小さな目覚めに過ぎません。仏となってこそ完全に夢から覚め、今後二度と夢を見ることはないのです。
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