衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月25日    火曜日     第5 回の開示 合計1129回の開示

意識はなぜ蘊・処・界を縁することができるのか

意識が蘊処界を縁じることができるのは、意根が先に縁じるからであり、それによって了別の究竟が決定されて初めて意識が蘊処界を縁じ得るのである。もし意根が蘊処界の様々な相貌を縁じなければ、意識は縁じることができない。意識はどのように生じるのか。意根が法塵と接触し、意根が何かを為そうとする時、第八識が初めて意識を生じて造作させ、もし意根が法塵に触れた後で何かを為そうとしなければ、第八識は意識を生じさせて造作することはない。それゆえ意識が蘊処界の相を縁じるのは、必ず意根が先に蘊処界の相を縁じたことによるのであり、意根が蘊処界の相を縁じないという理は存在しない。

いかなる時においても、意根は刹那刹那に第八識に依って蘊処界の相を縁じ、蘊処界と瞬時も分離することがない。たとえ眠って夢を見ない時であれ、昏倒している時であれ、無想定の中にあれ、死んで色身を離れない時であれ、中有の身にある時であれ、意根は常に蘊処界と共にあり、蘊処界を縁じ続ける。蘊処界が存在せず、五蘊がない時に至って初めて、その縁を断つのである。

もし意根に縁じない法があるならば、意識はどうして縁じ得ようか。いかなる法においても意根がなければ、そもそも意識の存在すらあり得ない。ましてや意識が縁じ得るなどということがあろうか。意と法の因縁によって意識が生じることは、世尊の聖教量であり、世尊自らが説かれた聖なる言葉である。これに背く理があろうか。意根がすべての法を黙容することは、世尊が楞厳経において親しく説かれたところである。これに背く理があろうか。

——生如法師の開示
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