衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月12日    月曜日     第2 回の開示 合計3295回の開示

身口意の行いは意識が作り出すのか、それとも意根が作り出すのか

身口意の行いはすべて意識によって造作されるものであり、意根の無明に駆り立てられて造作されるものである。意根に無明がなければ、意識が無明に染まった業を造作することはない。これが十二因縁において説かれるところである:意根の無明が意根の思心所を生じさせ、身口意の行いを造作しようとする選択が生まれる。意根が選択した後に意識と五識が生起し、意根の心行と選択に沿った身口意の行いを造作する。主導権は意根にあり、意識はただ意根の調制に従うに過ぎない。例えば五歳の子が醤油を買いに出かけるのは大人の指示によるもので、大人は家庭で柴米油塩を管理し、不足すれば子供に買わせる。例えば社員の仕事は経理が手配し分配するもので、社員は指導者の管理に従わねばならない。例えば社会の各業界の活動は国家上層部の指導核心が配置するもので、下部組織は上層指導部門の配置に基づき業務を展開し、命令に背くことは許されない。

衆生の身口意の行いは表面的には意識と五識が造作したものに見えるが、実質的には意根の意志と主張を体現しており、意根の習気と習慣を表している。一つの主と一つの従が調和して作用する時、五陰身は協調する。もし調和して作用しなければ、意根の精神分裂と崩壊を招き、精神疾患が現れる。もちろん時として意根が某些の法を理解しない時は、主意と主張がなくなり、意識の意見と見解に従うことになる。時には盲目的に従うこともあり、意識が主張する内容を深く理解することもない。この時こそ意識の強大さが現れるが、もし意根に智慧があれば、意識は意根より強大になることはなく、永遠に意根自らが主意を決めるのである。

——生如法師の開示
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