衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月12日    月曜日     第1 回の開示 合計3294回の開示

証果に関する対話

甲:証果明心は意識による悟りで十分であり、意根が同時に悟る必要はありません。 

乙:意識が悟りを証して聖者となった後、夜眠りについた時、その者は聖者としての身分か、それとも凡夫の身分でしょうか? 

甲:第八識に法種が留まっているため、目覚めれば当然ながら初果の者です。 

乙:もしこの者が目覚めない場合、凡夫か証果者か?永遠に深い昏睡状態にあるなら? 甲:第八識に法種が留まっています。 乙:第八識内の法種は無数に存在し、地獄に堕ちる極めて重い業種も含まれます。結局どの業種がその者の身分を決定するのですか? 

甲:重い業種を持つ意識による証果が優先されます。 

乙:意識は証果を得ても意根は未悟です。意根の貪瞋痴による無明の煩悩も重大な業種であり、意根の無数の貪瞋痴の地獄業種は意識の証果業種より強くないでしょうか? 

甲:········· 

乙:生死の時、意識が滅びる際、意根と第八識が生死します。この時は意識の証果身分で生死するか、意根の凡夫身分で生死するか? 

甲:第八識内の業種によって生死します。 

乙:第八識内の意根の無数の貪瞋痴煩悩業種は意識の業種より確実に強力です。意識が熏習した法は軽すぎて成熟せず、意根に相応する煩悩業種が極めて重い場合、どこに生死することになりますか? 

甲:意識の証果業種が重いのです。 

乙:意識の証果は意識に相応し、意根には相応しません。意識が現行する証果の智慧と、意根の煩悩業種が意根に相応し、意根が現行する煩悩の業行。意識が滅びた時、証果の智慧を現行できず、意根が貪瞋痴我見の煩悩業行を現行するなら、どこに生死するのでしょうか? 

甲:········ 

乙:仏法の熏習が全て意識によるなら、中有において意識はどれほどの作用を及ぼしますか?中有では意根の染汚業力が強く作用するか、それとも意識の熏習力が強いか? 

甲:生死に中有を経ない場合もあります。例えば地獄直堕や昇天など。 

乙:中有を経ない生死は生前の重大な善業・悪業によるものです。衆生の意識証果の善業と、意根未悟の貪瞋痴染汚業、どちらが大きいでしょうか?証果を得れば中有なしに直接天界へ昇るのですか? 

甲:正法を熏習すれば最終的には有益です。 

乙:正法を熏習しても貪瞋痴煩悩が具足し、少しも断たれず、煩悩業種が第八識に留まるなら、中有で煩悩業が現前した時、煩悩業に従って生死するか、熏習した法に随って生死するか? 

甲:意識の証果善業に従って生死します。 

乙:しかし意根は畢竟未悟であり、生前の貪瞋痴が極めて重く、染汚業種が意識証果業種を上回るなら、強業先牽の理により、意根の染汚凡夫身分で生死すべきでは? 

甲:······· 

乙:安易に「仏法を学べば業種が蓄積され、善道に生死し三悪道を離れる」と考えるのは極めて偏った見解です。誰もが善法を熏習しても、第八識の悪業は依然重く、善法が悪法に対抗できず、結局強大な悪法が主導権を握るなら、どうして三悪道の果報を免れ善道に生まれられましょうか。

——生如法師の開示
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