衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年06月02日    土曜日     第3開示 合計584開示

心解脱の条件

問:初禅を得ることは、心が解脱したことになるのでしょうか。

答:心の解脱ではありません。初禅定は煩悩を抑えることはできますが、煩悩を断じることはできないため、心の解脱を得ることはできません。単なる初禅定と解脱には必然的な関係はなく、心の解脱の条件と基準は、我見を断つ功徳の受用に加えて初禅定を有することであり、この二つが揃って初めて可能となります。

我見を断った後、初禅定において貪欲と瞋恚の二種の煩悩を断じることができ、心が欲界の貪欲と色界の瞋恚から解脱し、これらの二つの煩悩に束縛されない状態を、心解脱した三果の聖者である阿那含(アナゴン)と呼びます。ただしなお無色界の愚痴は断たれておらず、愚痴の無明煩悩が断尽した後は、智慧解脱した四果の聖者である阿羅漢(アラカン)となります。三果・四果の大乗菩薩は、将来初地以上の聖者となる資格を有するのです。

したがって禅定を修めず、いかなる三昧の境地もないならば、解脱を得ることはできず、ましてや成仏することは不可能です。同様に我見を断たなければ解脱できず、ましてや成仏できません。この二つの関門は、初地と三果の者以前に必ず通過しなければならず、いかなる方法でも回避できず、逃れることはできません。いかなる修行の工夫を凝らそうともです。

たとえ三蔵十二部経を巧みに語ったとしても、この二つの関門を通らなければ、解脱や成仏とは無関係であり、真実の証量とも無関係です。口頭の智慧がどれほど高く、仏地にまで達していたとしても、二つの関門のうち一つも越えることはできず、必ず通過しなければなりません。そうでなければ、それは高談闊論と呼ばれ、解脱・涅槃・成仏とは無縁なのです。

心解脱の条件は、ある程度の禅定の力量を基礎として備え、意根が一定の禅定状態にある中で、意識の補助を通じて観行を行い、五蘊は虚妄であることを証得し、その後我見を断って色身への固執を捨てることです。そうして意根は最も初歩的な解脱を得て、初果の解脱の功徳を受用するのです。

解脱とは実際には意根の解脱であり、意根が無明に束縛され、意根が生死を輪廻しているのです。もし意根の無明を打破せず、六識の無明のみを打破した場合、死を迎える時、意根は無明に引きずられ、なおも生死の苦海に沈淪し続けることになります。その時には六識は跡形もなく消失しており、来世に赴くことすら叶いません。その時、意識に無明があるかないかはもはや問題ではなく、五陰身が在世している間に、無明のない意識が効果的に意根を薫染し、意根にも無明を打破させることが重要なのです。もし五陰が生きている間に意識に無明があれば、意根を薫染して無明を打破させることができず、それによって依然として身口意の悪行を造り、未来世への悪業の種子を残し、生死輪廻の苦しみを受けることになります。

——生如法師の開示
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