捨受の特徴は、対象に対して心が無心であり、苦も楽も感じない、苦でも楽でもない心境である。八つの識には全て捨受があり、第七識の捨受が現れる理由は二つある。第一に、第六塵を具体的かつ詳細に識別できず、痛みや酸味・甘味・苦味などの六塵の境界を覚知できないため、心に苦楽の受が生じない。第二に対象となる境界が平静で淡白であり、重大でないため、苦楽の受が生じず捨受のみが存在する。一旦第六識が重大かつ特別な意味を持つ六塵の境界を識別する時、特に自己への影響や意義が特別である場合、意根は苦楽の受を生じ、捨受ではなくなる。意根は六識に自身の苦楽の受を表現させるよう指令を出す。例えば、喜びで手舞足蹈りする、怒りで全身が震える、苦痛で号泣するなど、これらは全て意根の感情の発露である。
第六識の捨受は、第七識とやや異なる。第六識は直接六塵を識別するが、識別後も六塵の良し悪しを特に感じず、心境は中立的で平和的、中庸的であり、六塵の有無に執着せず、六塵が自己に影響を与えないと感じる。喜びも嫌悪もなく、何ら求めるところもない。このため第六識は六塵に対し苦も楽も感じず、これが第六識の捨受である。
如来蔵にも捨受があるが、その捨受は前七識とは異なる。如来蔵の捨受は六塵の境界に属さず、六塵万法に対応しない。如来蔵は六塵を対境とせず、六塵を分別せず、識別しないため、六塵を受容しない。よって如来蔵の捨受とは六塵を感じないことであり、六塵に対する受が存在しないことを方便的に捨受と説く。これに対し七識の捨受は六塵に対する受であり、七識が六塵に対し興味も嫌悪も抱かず、六塵を分別した後も具体的に識別しない受を指す。
如来蔵の捨受は、本来六塵の善悪・是非・大小・長短・方円を分別できない性質によるもので、自心に感受も情緒も生じない。真実心と妄心の捨受にはこのような差異がある。捨受とは境界に対し無関心であり、好きでも嫌いでもなく、無頓着な状態を指す。六塵を見ても見なくても良く、六塵があっても無くても構わないという七識心の感受、これが七識の捨受と呼ばれる。
如来蔵のこの種の捨受は、具体的な境界を識別しない受であり、対象の実体を知らず、定義や概念を持たず、覚観もない。従って第八識は平淡無味な捨受を有する。如来蔵には更に、識別後の捨受が存在する。何を識別するかと言えば、衆生の根身・器界、業種、七識の心行である。七識の心行を識別した後も、如来蔵は七識が清浄過ぎるとか、汚穢過ぎるとか判断せず、七識に対し好悪の感情を生じない。完全な捨受の状態で、七識の心行の如何に関わらず、その運行に協力する。衆生の業種を識別した後も、この業種が良く、あの業種が悪いと判断せず、業種を好んだり厭ったりすることなく、あるがままに業種を出力し、衆生の応受くべき果報を実現する。これが如来蔵の捨受である。
如来蔵が衆生の業種を記録・保存する際、この業種は余りに酷いから記録すればこの衆生は将来悲惨になるだろう、だから記録を隠蔽して保存しないでおこうなどとは決して考えない。また衆生のこの業行は素晴らしいから、しっかり保存して失わないようにしようなどとも考えない。従って如来蔵は衆生の業行に対し楽受も苦受も生じず、完全な捨受である。如来蔵が衆生の根身・器界を識別する時、この根身・器界が如何に良いとも、余りに酷いとも評価せず、より良く変造しようなどとは考えない。よって如来蔵は根身・器界に対し苦受も楽受も生じず、完全な捨受を保つのである。
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