衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月01日    金曜日     第6 回の開示 合計581回の開示

無夢無想のとき、主人公はどこにいるのか

夢もなく想いもない時の主人公はどこにいるか、これは禅宗第三関の内容であり、第一関第二関を突破したか否かにかかわらず、この内容は解説できず、解釈もできぬ。もしそれが可能ならば、仏法を学び禅を参ずる意義はどこにあろうか。第一関第二関を過ぎた後、禅定を修めて初禅を得、陽炎観を証得し三果人となってこそ、禅宗第三関に至り、第三関の参究を始めるのである。この段階に至れば、なおさら他人の解説を求めてはならない。参究を要するものはすべて自ら参究し、自ら証得すべきものであり、他人から聞き出したのでは証得できぬ。それでは仏道をどう修行していけようか。

自ら第三関の内容を参究し、更に唯識の理論的知識を理解すれば、初地に入ることができる。しかし初禅の関門は、恐らく全ての人を難倒するであろう。以前は初禅を修め三果を得た者が現れれば、初地に入る一定の資格を得られると期待していたが、今となってはその望み薄である。今の世の人々が禅定を修めることがこれほど困難なのはなぜか。五欲六塵が人を惹きつける力が強すぎるからである。実は人が五欲六塵に執着しすぎているのである。境界は無心に人を引きつけるが、人は有心で境に趣く。誰も五欲を止めて遠ざけようとしない。どうしようもないことではないか。

第一関で死屍を引きずるのは誰か。この結論を公表して皆に教えたところで、何の役に立とうか。自ら参究せず、意根が相応しなければ、全ての答えを知り、最も詳細な解答を理解し、仏の境界を知ったとしても、何の役に立つのか。もしそれが役立つなら、私たちは皆仏経を読み、仏地の境界を研究し、共に速やかに成仏すれば、それで素晴らしいではないか。

一切法が夢幻泡影であると知っただけで、既に一切法が夢幻泡影であると証得したことになるのか。仏地の境界を知ることが即ち仏となることなのか。

凡夫が四果阿羅漢の修行境界を理解し語ったからといって、果たして四果阿羅漢の修養を備えていると言えようか。凡夫が如何に仏道を成就するかを説いたからといって、既に成仏したことになるのか。

要するに、多くの法を意識で容易に知り理解したとしても無意味である。意根自らが証得しなければならず、証得してこそ智慧解脱と成仏が可能となる。証得せずに言葉巧みに説いたところで、何の役にも立たないのである。

——生如法師の開示
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