意根が我見を断じて初果となった後、なぜ四果に至って初めて我執を断除するのでしょうか。
意根が我見を断つ智慧の深さには程度差があり、異なる段階に分かれます。料理を習得して調理師になるように、継続的な実践を通じて技法を体得し、一級調理師、二級調理師、そして特級調理師へと進むが如く、意根が我見を断つことは学生が校門をくぐったばかりの状態に等しく、数年を経て卒業に至ります。優秀な飛び級生が存在するように、仏法を学ぶ者の中にも特殊な善根を具える者がおり、悟りの段階が二果・三果・四果と異なる場合があります。
意識と意根が五蘊無我の理を認識する深さに差異があり、見解が異なる故に、証得する果位も異なります。初果を証得した後、引き続き五蘊十八界の苦・空・無常・無我性を観行し、認識を深化させ、観念の転換を徹底化させ、無我の智慧を深めていくことで、我執は次第に薄れ、小乗の無我の理を極致まで体得すれば我執は断尽し、様々な智慧が現前し、三界を超越する力を得て、輪廻を解脱し、無余涅槃に入ります。智慧がどの程度証得されたかによって、相応する煩悩が断除され、我執が軽減された分だけ相応する果位が得られます。
例えば世尊が夜半に明星を観じて頓悟された際、最後の一分の無明を断じ、最大最究竟の智慧を獲得され、即時に成仏されました。何かを待つ必要も、更に修行する必要もありません。無明が既に断尽され、修すべき法が何も残されていなかったからです。
初果の者は、意根の無我の智慧が未だ浅く、一念の無明が深重であるため、我見が完全には断じられていません。引き続き観察修行を重ね、五蘊無我の認識を深化させ、智慧を透徹させていくことで、無明は次第に薄れます。これは一歩一歩の修行の結果であり、智慧が究極に至れば修行を要せず、無明煩悩が同時に完全に断じられ、四果無学の果位が同時に獲得されるのです。
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