如来蔵には如来蔵の体性があり、五蘊・十二処・十八界には五蘊・十二処・十八界の体性がある。これらは全く異なるものである。しかし五蘊・十二処・十八界には自らの体性がなく、その一切の体性・機能・作用は全て如来蔵によって与えられたものである。如来蔵がなければ五蘊・十二処・十八界は存在しないが、五蘊・十二処・十八界がなくとも如来蔵は依然として存在する。如来蔵は自ら単独で存在することができ、外縁に依存しない。如来蔵が顕現するには五蘊・十二処・十八界を依りどころとしなければならないが、五蘊・十二処・十八界の活動の中に如来蔵を見出すことができる。
五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を指す。十二処とは六根処(眼・耳・鼻・舌・身・意)に六塵処(色・声・香・味・触・法)を加えたものである。十八界とは六根界・六塵界に六識界(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)を加えたものである。如来蔵はこれらの法の存在する場所から離れることなく顕現するが、これらの法を離れても存在することができる。六根・六塵・六識の全体は如来蔵の真実の作用であり、全て如来蔵そのものである。しかし如来蔵は六根・六塵・六識ではない。「渠(かれ)今は正に我なり、我今は渠にあらず」とはこの意味である。渠とは五蘊・十二処・十八界を指し、我とは如来蔵を指す。五蘊・十二処・十八界は即ち如来蔵であるが、如来蔵は五蘊・十二処・十八界ではないのである。
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