工夫における無所念にして念ずるとは、意識表面に念が無く、法を念じずとも、意根の深層には依然として念が存在し、心に懸かった念が絶え間なく続く状態、これを参究と申す。意根を用いる工夫は容易ならざるもの、定力不足の故なり。真に意根が働く境地に至れば、意識もまた観察し難く、意根の作用は甚だ隠微にして、発掘容易ならざる所以である。
参禅における疑情は目標に近接すればするほど良く、範囲は狭小であればあるほど良し。これは人を探すことに似て、全国を範囲と定むるは定めざるに等しく、特定地域を定めれば速やかに人を見出し得るが如し。ただし範囲を狭小に定むるほど、必要なる証拠多く、了知すべき情況多く、智慧は深微を極める。禅宗最も直接的な話頭は「屍を引きずるものは誰ぞ」、行蘊において如来蔵を証得するは最も迅速なるも、証量は稍小なり。唯識において悟るは証量高深にして、意根の功用において悟るは比較的直接にして究竟徹底するものなり。
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