衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月23日    水曜日     第1 回の開示 合計531回の開示

仏典と小乗論書

小乗の修行においては、やはり仏の説かれた阿含経、特に雑阿含経を基準とすべきであり、他の人々の論書には多かれ少なかれ不正確な点があり、その細部が仏説と一致しない。たとえ四果の阿羅漢が説いた論書であっても、仏説との間に食い違いがあるため、全てをそのまま信受すべきではない。

小乗の諸論書における誤謬と論争は、古代唯識の論争よりも多い。これほど単純な法義ですら議論を呼び意見が分かれる現状は、仏法の修行が容易でないことを示している。小乗の解脱道における修行の次元が比較的低いが故に、書物を著し論を立てる者が多く、内容も雑然としており、各々が独自の説を立てる例も少なくない。これらは全て娑婆世界の衆生の業が招いたものであり、他の世界にはこのような状況は存在しない。

経典には、初果を得た後に初禅定を修めて初めて、順次に貪瞋痴などの煩悩を断じ、その後で慧解脱の阿羅漢となると説かれている。しかし小乗の論書においては、慧解脱の阿羅漢には初禅も未到地定も必要ないと主張されている。少しも禅定を修めることなく煩悩を断じて四果を得るなどというのは、全くの空論である。

我々が今生において精進修行せず基礎を固め、何らかの成就を得なければ、後世の仏法はさらに混乱を極め、正邪の区別がつかなくなり、魔王の仕掛けた罠から脱出できなくなるだろう。魔王の手口は極めて多く、防ぐに防ぎきれない。よって我々は三宝に帰依する誓願を発し、仏力の加護に依って解脱の正道を歩むべきである。この世は魔障に満ちており、福徳が少しでも不足すればたちまち障礙を受け、自ら気付かぬうちに、あるいは気付いても解脱する力を持たない。福徳を積み、定力を増し、業障を降伏させることこそが肝要である。時至れば、業障が眼前に現れても、それを突破する力を得るのである。

——生如法師の開示
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