常楽我浄とは、仏地の真如心体たる無垢識を指します。無垢識そのものが涅槃心であり、涅槃心は必ずしも涅槃境界ではありません。涅槃境界は涅槃後の阿羅漢や辟支仏の如来蔵が存在する境地です。仏は涅槃境界に住まず、無余涅槃にも住しませんが、仏の無垢識は純粋に涅槃の寂静状態にあり、不生不滅ではなく永遠に生滅せず、常恒の状態です。これこそ真の涅槃境界です。故に常楽我浄とは無垢識本体の寂静清涼なる境地を指し、涅槃死後の空無の境地を指すものではありません。
仏地の常楽我浄の真実境界は、小乗の世俗諦で説かれる苦・空・無常・無我を完全に覆します。苦空無常無我とは世俗諦における五蘊十八界の法を指し、これらの法は衆生の如来蔵より生じたものであるが故に生滅し、無常で苦しく空であり、従って無我なのです。
しかし仏地の無垢識は常に変異せず、染められることなく、その本性を改めず、真の常であり無常ではありません。所謂る常とは、心体に宿る種子に生滅変異の現象がないことを指します。衆生の如来蔵は未だ真の常ではなく、心体に七識の染汚業種が潜み絶えず生滅変異し、種子は染汚から清浄へと絶え間なく転換を続けます。或る衆生の如来蔵の種子は清浄性から再び染汚性へと変化することもあり、如来蔵はこれらの善悪業種子の影響を受け続けます。故に衆生の如来蔵は未だ常ではなく、無垢でもなく、不垢不浄なのです。
楽とは、仏地の無垢識が純粋な楽に満ち苦がなく、心体に悪業の種子が存在せず、もはや衆生の苦果を生じさせないため、苦も七識の苦受もなく、究竟寂滅の楽状態にあることを指します。
仏地無垢識は完全なる我性を具え、二十一の心所法(五遍行・五別境・善十一心所)を有し、意識や第七識、前五識と同様に一切の法を了別し顕現する能力を備え、我の性質と徳能作用を具現します。衆生の如来蔵には我性がなく、七識に引きずられるため五別境心所法も善十一もなく、五遍行のみを有し心所法が不十分であるが故に我性を有しません。
浄とは、仏地の無垢識が清浄無垢で無明の染汚がなく、真に清浄となり七識の染汚種子や無明を含まない状態を指します。如来蔵に染汚業種が存在しなくなると、全てが清浄純粋で不変の業種となり無垢識となります。故に無垢識は清浄で純粋です。衆生の如来蔵は純粋ではなく不垢不浄であり、心体に七識の染汚業種を残しているため完全な清浄ではなく、不垢不浄と呼ばれるのです。
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