意根の智慧には二種類が存在します。一つは無始劫以来、無量の法を熏習したことにより意識に特有の智慧を具え、生来より後天的な熏染や学習を必要とせず、意識の智慧をはるかに凌駕するものです。その力は極めて強大で、意識の及ぶところではありません。従って、意識による境界への思考・分析・研究・比較・想像などの思惟活動に依存することなく、単独で六塵内外の境に対し迅速かつ人知を超えた不可思議な考量判断を下し、即座に決断を導きます。この過程において意識の思考参究を許さず、また意識の弁明や抵抗をも容認しません。
意根のもう一つの智慧は、境界の具体的な内実を了別する智慧であり、これは意識に比べて極めて微弱で劣っています。そのため意識の微細な了別に依拠しなければ判断決断ができず、意根単独ではこの種の分別を完成させることができません。意根が縁する境は極めて広汎であるため、注意力の全てあるいは大半を投入して専注了別することができず、境界の大まかな相貌を了別して簡易な考量判断を下すのみで、微細な部分に至っては意識の了別に依らなければ決断を下すことができないのです。一般に言われる「意根の了別慧が劣る」とは、主にこの意味を指します。
この二種の智慧は厳格に区別しなければなりません。曖昧に混同すれば、意根の本質・機能作用を正しく正確に理解できず、自らの智慧と道業を向上させることは不可能です。もし意根の智慧が全ての法において常に低劣であるならば、重要な局面・生死存亡の危機・大義名分が問われる場面・証拠不十分な状況において、衆生はどう対処すべきでしょうか。決断を下せず窮地に陥り、災難を吉祥に転じることができず、早逝を免れず天寿を全うすることも叶わないのではないでしょうか。
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