衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月29日    土曜日     第2開示 合計1142開示

五遍行心所法における一切の俱とは何か?

五遍行心所法における一切俱とは、五遍行心所法が一切の識心とともに存在し、一切の法とともに存在することを指します。識心が運行している限り、必ず五遍行心所法が運行しており、五遍行心所法を離れては識心は運行できず、存在できず、了別活動を持つことができません。同様に、一切の法の上にも、識心の五遍行心所法が存在します。なぜなら、一切の法の上には必ず少なくとも第八識と第七識の作用があり、五遍行心所法は必然的にこの二つの識の作用に伴って運行するからです。

五遍行心所法が互いに俱生するという意味は、これらの心所法が集まって同時に生起し運行するということです。例えば第八識が一つの法を生じる場合、五遍行のすべての心所法は第八識に伴って初めから終わりまで運行し、一つも欠けることがありません。しかし第六識と第七識は必ずしもそうではありません。第六識と第七識が作意した後、もし興味がなければ触(接触)を起こさず、特に第七識の意根はそうです。触れた後も必ずしも受(感受)を起こさず、特に第七識の意根はそうです。受の後も必ずしも想(表象)を起こさず、特に第七識の意根はそうです。想の後も必ずしも思(思考)を起こさず、特に第七識の意根はそうです。意根の心所法が次の段階に運行しなければ、六識は現れず、仮に現れても消えて運行を停止します。特に意根の思心所が現れなければ、六つの識はすべて現れることができません。ここに意根の支配的な地位、その権力の大きさがうかがえます。

仏法は甚深であり、思惟が少しでも不十分であれば誤った方向に進みます。しかし大多数の人々の思惟は誤っており、自らそれを発見できず、認めようともしません。多くの人々はまさに自らの思惟が不十分であるがゆえに、やむを得ず有名人の言説を100%信受し、既存の答えに依拠して、それを究竟のものとみなし、確かなものだと考え、誤りに気づかないのです。これは現在の仏教界において極めて普遍的な現象です。

——生如法師の開示
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