念仏には二つの段階があります。一つは意識で念仏する浅い段階で、意根は念仏に興味を示しません。もう一つは意識だけでなく意根も念仏する深く集中した段階で、意識が念仏をしなくても意根の働きによって自然に仏号が浮かび上がります。
意識で念仏する段階では、意根が念仏を好まないため心が散乱しがちです。念仏を唱えながらテレビを見たり、会話をしたり、妄想に耽ったり、雑事に気を取られたりします。
意根が念仏する段階では、睡眠中でも夢を見ていても、仕事中でも思考中でも、あらゆる場面で念仏が続きます。念仏三昧は必ず意根から発し、一切時にわたって念仏が途切れず、心身に軽安を覚え喜びが生じます。
ある人が百万遍念仏修行に参加した時の話です。一週間で百万回念仏を唱えるため、108個の数珠を手に持ち、一巡するごとに珠を一つずつ繰っていました。両手で絶え間なく数珠を繰りながら口では仏号を唱え、同時にテレビを見たり意見を述べたり他人の作業を見たり、時には怒りさえ覚えるほど多忙を極めていました。彼女の意根は常に外縁に攀縁し、意識は形だけの念仏を続けるだけで一点の集中力もありませんでした。
このように意根を調伏して初めて念仏の定が生じ、念仏三昧に至ることができます。定とは結局意根を定めることであり、意識だけを定めても根本的な解決にはならないのです。
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