衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月12日    土曜日     第2 回の開示 合計475回の開示

仏法は世俗諦と真諦の両面から学ぶべきである

問:極楽浄土は唯心所現であり、また如来蔵でもあるが、真実の極楽浄土は存在せず、衆生が執着すれば西方が現れ、執着しなければ十方は寂滅するのでしょうか。

答:如来蔵は極楽浄土を顕現し、幻化することができます。極楽浄土は確かに如来蔵の機能作用の一部であり、如来蔵と不異不一の関係にあります。もし極楽浄土が即ち如来蔵であるならば、極楽浄土もまた万法を生じるはずですが、実際にはそうではないため、極楽浄土と如来蔵は完全に同一ではなく、異なる側面もあります。異なる点として、極楽浄土は形相を有し、生滅幻化する変異的な存在であり、識心の体性を持たず、物質的作用を有する衆生を載せる器です。一方、如来蔵は心識そのものであり、形相なく、心の機能体性を具え、不生不滅で不変異であり、極楽浄土はこれに依って存在します。

一切の法は如来蔵を離れず、極楽浄土の全体は如来蔵の機能作用の顕現です。極楽浄土を見る時は自らの妙真如性であることを悟り、極楽浄土を聞く時は自らの妙真如性であることを悟り、極楽浄土を嗅ぐ時も自らの妙真如性であることを悟るべきです。一切の法は皆自らの妙真如性であり、これが大悟成片の境地です。

ただし、極楽浄土が実際に生滅を有し、後から出現したものであることも知る必要があります。極楽浄土の建立はわずか十劫の時間です。世間の現象的存在を否定することはできず、娑婆世界も十方世界も同様にその存在性を否定できません。ただこれらの存在は真実ではないに過ぎません。

仏法を学ぶには世俗諦と真諦の両面から学ばねばならず、いずれの側面も否定せずに直視すべきです。真には真の体性があり、妄には妄の作用があります。阿含経と華厳経は真俗両面から仏法を説き、共に仏説であり、修習し証得すべきものです。仏が解脱道を説く際、もし世俗法がなければ解脱を説く必要もなく、四聖諦の理を説く必要もありません。世俗諦においてのみ苦集滅道が存在し、真諦たる如来蔵には本来苦がなく、苦を集めず、苦を断たず、道を修めることもないからです。仏が私たちに生死輪廻の苦から出離するよう教えるのは、まさに世間に生死苦の世俗的現象が存在するからであり、これは否定できません。

したがって極楽浄土は唯心所現ではあるものの、現象的には存在し、阿弥陀仏や諸大菩薩、無量の衆生も極楽浄土の現象界に存在しています。深甚な智慧を証得した時、極楽浄土と十方世界の実質が一真法界であることを知り、この時十方は全て寂滅します。私たちは仏法を学ぶに当たり、真俗両面から完全に事理を見極め、いずれにも偏ることなく、正知見を具足し深甚智を得るべきです。

——生如法師の開示
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