問:梅の実と聞くだけで、まだ口にしていないのに酸っぱい水が溢れるのは、どういう理由でしょうか。
答:楞厳経において世尊がこの話を説かれたのは、想薀の境界が虚妄で実体のない性質を喩えるためでございます。想薀は識心の了知性・執取性、および意識の様々な思考・観念などの心理活動に属します。酸梅と聞いて酸梅を了知し、続いて心に思いを起こすこと、これ皆想薀であります。口に酸水が溢れるのは行薀でございます。想薀が行薀を生じさせることにより、身心が密接に関連し相互に影響を及ぼすことが示されます。身体が識心に影響を与え、識心も身体に影響を及ぼす。識心の変化と運行は身体に影響を及ぼし、身体の変化を促すのであります。
三能変識(如来蔵・第七識・六識)の和合は一切法を生起し変化させます。梅の実を聞くという事象は三能変識の和合によって生じ、口に酸水が溢れる現象もまた三能変識の和合によって生じます。この二つの現象において、如来蔵は同一、第七識は同一、第六識は同一でございます。想薀にはこの三識の作用があり、行薀にも三識の作用があります。三識が縁とする法塵もまた同じであるため、想薀は行薀と相通じ、想薀は行薀に影響を及ぼし、耳で聞き心で思うことが身根の口に酸水を溢れさせることができるのであります。
意識は過去の経験に依り、梅の実が酸っぱいことを了知します。過去に酸味を嘗めた体験と経験があるからこそ、心に酸の反応が生じるのであります。これらの経験は既に種子として如来蔵に蔵されております。他人が口で梅の実を説く時、耳根と意根が同時にその音声に対応し、耳識と意識が同時にその内実を了知します。意根は如来蔵を通じて過去の梅の実に関する情報を再び送り出し、これらの情報は意根と意識を通じて身体に影響を及ぼし、酸水が溢れ出るのであります。
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