衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月12日    土曜日     第4開示 合計478開示

二諦円融してこそ通達無碍たり得る

極楽世界は唯心の浄土であり、心が現じたものであるならば、極楽世界は真実には存在しないということになるが、この真実には存在しないということは、そもそも極楽世界が存在しないということと等しいのであろうか。

極楽世界は現象界の上では有であり、世俗上の有に属する。世俗上の有もまた空幻ではあるが。仏は『阿弥陀経』の中で極楽世界の殊勝と荘厳を描写され、極楽世界が存在すること、想像の産物ではないことを証明された。しかし極楽世界もまた唯心が変じたものであり、一真法界の中の一つの仏国土であり、またすべての衆生の心中の浄土でもある。一真法界とは最も真実の世界であり、衆生の如来蔵 (tathāgatagarbha) の世界であり、一切法は如来蔵の外に出ることはない。極楽世界は現象の上では存在しており、現象界とは世俗諦であり、真心如来蔵に依って有るものである。阿弥陀仏が因地の菩薩位において、大いなる清浄 (viśuddha/pariśuddha) の誓願を発して建立した殊勝な仏国土であり、衆生を摂受するために建立されたものである。しかし極楽世界もまた幻化されたものであり、法蔵比丘の善業が感召したものであって、本無今有である。それゆえ、それは幻化して生滅する虚妄の相なのである。

一切の世俗法は、その現象界の存在を否定することはできない。たとえば我々の五陰 (pañca-skandha) の身は、現象の上では有であり、これは否定できないが、実質は空であり、真心が幻化したものであり、空幻の世俗法であるから、実在ではない。五陰は幻化・生滅・空ではあるが、五陰が現象の上で存在することを否定することはできず、世俗諦における作用を否定することもできない。同理として、極楽世界もまた阿弥陀仏の無垢識 (amala-vijñāna) が幻化したものであり、また極楽世界のすべての衆生の如来蔵が共に幻化したものであり、無から有を生じ、後天的に生じたものであるから、虚幻の仮有である。そうではあっても、極楽世界が現象の上で存在することを否定することはできず、世俗諦における有を否定することもできない。

真心のほかは、一切法はすべて真心中の物であり、真心が変じたものであるから、すべて生滅するものであり、真心のみが生滅しない。極楽世界は極めて久遠の時間存在し続けるであろうが、やはり生滅変異の性質を具えており、真心如来蔵のように永遠に存在することは不可能である。仏は四十九年間の説法において、それぞれ世俗諦と勝義諦の二つの面から説かれた。世俗諦とは現象の上の有であり、この有は仮有・幻有である。勝義諦は現象の上では無であるが、実質の上では有であり、実相心である。勝義諦は実質の上の有であるからこそ、世俗諦の現象である幻有と仮有を生じさせることができるのである。

我々が学仏修行するにあたっては、一方に偏って他方を否定してはならず、二者はどちらも重要である。勝義諦の理を明らかにし、それによって世俗諦の顛倒を改め、従来の無明に由来する狭隘な認知を正してこそ、大いなる智慧を獲得し、仏道を円満することができる。世俗諦のみを認めて勝義諦を認めなければ、生死輪回から出離することはできない。勝義諦のみを認めて世俗諦の有を否定すれば、その勝義諦には実際の作用と意義がなくなり、衆生もまた修行することができなくなる。

学仏が究竟に至ったときには、二諦はともに円通無碍となる。一諦でも通じなければ、二者とも通じない。そして勝義諦を通達すれば、次第に世俗諦をも通達できるようになり、二諦を円融に修め満足させてこそ、世出世間法を円満に通達無碍とすることができる。最終的には、五蘊七識が徹底的に究竟に転変され、一切の無明を滅し尽くし、五蘊七識に最大かつ最も円満な功用を発揮させることができるのである。

——生如法師の開示
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