極楽浄土は唯心の浄土であり、心の現じたものであるならば、極楽浄土は実在するものではないということになります。この実在しないということは、極楽浄土が全く存在しないことを意味するのでしょうか。
極楽浄土は現象界においては存在し、世俗的な存在に属します。ただし世俗的な存在もまた空幻であります。仏が阿弥陀経において極楽浄土の殊勝さと荘厳さを説かれたことは、極楽浄土が存在し、想像上のものではないことを証明しています。しかし極楽浄土もまた唯心によって現じられたものであり、一真法界における一仏国土であり、すべての衆生の心中にある浄土であります。一真法界こそが最も真実の世界であり、衆生の如来蔵の世界であり、一切の法は如来蔵を離れません。極楽浄土は現象的には存在し、現象界は世俗諦であり、真実心である如来蔵に依って存在します。これは阿弥陀仏が因位の菩薩位において大いなる清浄な誓願を発し、衆生を摂受するために建立された殊勝な仏国土です。しかし極楽浄土もまた幻化されたものであり、法蔵比丘の善業が感得したもので、本来存在しなかったものが今存在するようになったため、幻化生滅の虚妄相であります。
すべての世俗法はその現象界における存在を否定できません。例えば私たちの五蘊身は現象的には存在し、これを否定することはできませんが、実質は空であり、真実心が幻化した空幻の世俗法であるため実在しません。五蘊が幻化・生滅・空であるとしても、五蘊の現象的存続を否定することはできず、世俗諦における作用を否定することはできません。同様に、極楽浄土も阿弥陀仏の無垢識が幻化したものであり、極楽世界のすべての衆生の如来蔵が共に幻化したもので、無から有へと後天的に生じた虚妄の仮有であります。それでもなお、極楽浄土の現象的存続を否定することはできず、世俗諦における存在を否定することはできません。
真実心を除く一切の法は真実心の中のものであり、真実心によって変化したものであるため、すべて生滅するものであり、ただ真実心のみが不生不滅であります。極楽浄土が極めて長遠な時間存在し続けるとしても、結局は生滅変異の性質を具えており、真実心如来蔵のように永遠に存在することはできません。仏が四十九年間説法された中で、世俗諦と勝義諦の両面から分別して説かれました。世俗諦は現象的な存在であり、この存在は仮有・幻有であります。勝義諦は現象的には無ですが、実質的には存在し、実相心であります。勝義諦が実質的な存在であるからこそ、世俗諦の現象としての幻有と仮有を生じることができるのです。
私たちが仏法を学び修行する際、一方に偏って他方を否定してはならず、両者ともに重要であります。勝義諦の理を明らかにし、それによって世俗諦の顛倒を改め、これまでの無明による狭い認識を正すことによって、大いなる智慧を得て仏道を円満することができます。もし世俗諦のみを認め勝義諦を認めなければ、生死輪廻を出離することはできません。もし勝義諦のみを認め世俗諦を否定すれば、この勝義諦は実際の作用と意義を失い、衆生は修行することができなくなります。
仏法を究極まで学ぶ時、二諦は円通無礙となります。一諦が通じなければ両者とも通じず、勝義諦を悟れば次第に世俗諦も悟ることができます。二諦を円融に修め満たすことによってのみ、世間法と出世間法が円満に通達無礙となるのです。最終的には五蘊七識が徹底的に転換され、一切の無明を滅尽し、五蘊七識が最大最円満の功用を得るに至ります。
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