衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月11日    金曜日     第5 回の開示 合計470回の開示

五蘊と六識はすべて意根の所依である

懺悔には真の懺悔と偽りの懺悔があり、身口意の行為も真偽二種に分けられます。偽りのものは真心から行うものではなく、内面から発するものではなく、意識心の表面的な作為に過ぎません。真実の誠意あるものは全て内面から発せられ、意根が作為を欲するものです。

故に真の懺悔とは意根が心の底から発する誠実な悔い改めであり、仮初めのものではありません。意根が懺悔を欲する時、意識を通じ五識を介し、五陰身によって意根の悔い改めの意志を表現します。意根が五陰身を離れ、意識と五識を離れる時、手段を失い、働くことができず、自らの願いを成就できません。ここにおいて意根は意識を離れて何ら作為することがないと言えます。しかし意根は決定的に独自の智慧的認知を具えており、生来の聡明さとは即ち意根を指し、前世より無量劫を経て今生に至るまで携えてきたものです。

この智慧は意識の教導を必要とせず、先天より具わっています。意根の持つ多くの智慧を、意識は持ち合わせておらず、意識の理解できない多くの法を、意根は理解しています。而して意識はなお意根の薫染に依らねばならず、意識が分析・思惟・判断によって人事物理を弁え得ない時、意根の直観作用に依って判断と選択を行います。故に多くの事柄が成就した後も、意識は未だその経緯を知らず、茫洋としたまま事を成し遂げ、時として極めて良好な結果をもたらすことさえあります。

多くの場合、身口意行が完遂された後も、意識はその真相を知らず、全く理解できないまま、分析・思惟・判断の余地なく、全て意根自らが主導して作り出したものです。事後になっても意識は依然として真相を知らず、その理を悟りません。ここに意識の微塵ほどの智慧の参与があるでしょうか。

五陰身・意識・五識は全て意根の用いる工具に過ぎず、これらの工具を離れては、意根の六塵における想念は一つとして実現できません。意根は必ず六識を利用して身口意行を造作し、自らの考えと心を表現せねばならず、さもなくば聾唖者や障害者の如く、何ら作為することができません。これは意根自体が独自の見解と智慧的認知を具え、意識を必要とせず生来より存在し、意識が存在する時は丁度これに依って表現でき、意識がなければ表現できないことを示しています。故に意根の智慧や全ての功徳を意識のものと看做すことはできず、意根が生生世世無量劫にわたって培ってきた生得の能力を埋没させることは、公平を欠き、世俗人の無智を示す所存です。

多くの重大事、特に危急存亡に関わる事態において、意識に思考・分析・判断の機会や能力が残されているでしょうか。しかし意根が主導権を握り決定を下し、緊急措置を講じることで、災難を次々と回避し、最終的に凶を吉に転じます。事後になっても意識は依然として真相を理解できません。

我ら全ての衆生は、意根の持つこの凶転吉の能力に感謝すべきです。意根のこの生得的な智慧的選択がなければ、我々の生命は出生後間もなく夭折し、老死に至るまで生存することは叶わなかったでしょう。

世人に対する判断、特に初対面の未知なる者への判断において、意識は往々にして力を発揮できず、全て意根が累劫にわたる経験に依るものです。これが即ち直観であり、智慧なのです。

——生如法師の開示
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