十二因縁における各々の連鎖は無生であり、真実ではなく虚妄なるもので、如来蔵によって初めて存在し得るものです。表面上は生があるように見え、相は存在するように見えても、その本質は無です。しかしこの背後には確かに真実の法が存在しており、そうでなければ虚妄の法は存在し得ません。この真実は我々が執着しようがしまいが、認めようが認めまいが、常に真実として存在しています。執着しても存在し、執着しなくても依然として存在し、我々の貪りや認識の有無とは関係なく、見えず触れられなくとも、本然の機能を果たしているのです。
従って仏法を学ぶ者は真と妄という二つの本質を分離し、徹底的に切り離すことで初めて事物の本質を認識できます。混同して論じてはならず、混同すれば真も識れず妄も識れず、真を妄とし妄を真とする誤りを犯します。これらの混同が解けなければ、生死の大事は解決されません。衆生が証果を得られない根本原因は、真法と妄法を分離できず、両者の本質を明らかに理解していないため、見解が誤り智慧が開けないからです。
例えば十二因縁において「名色が縁となって六入が生じ、六入が縁となって触が生ず」とは、名色があるから六根が生じ六入があるという意味です。名色があればなぜ六入があるのか。この六入はどこから来るのか。六入・六根が天から降ってくるものでも自然発生するものでもないことは明らかで、名色(受精卵)において如来蔵が六根を生じさせたのです。このように前の連鎖が縁となり次の連鎖を引き起こしますが、次の連鎖は如来蔵によって生じ、前の連鎖の縁を借りて現れるのです。
さらに「六入が縁となって触が生じ、触が縁となって受が生ず」とは、六入があるから触が生じるということです。六入・六根自体が能動的に何かに触れるのでしょうか。決してそうではなく、背後に如来蔵があるから六入が六塵の境界に触れるのです。触が縁となって受が生じますが、この感受はどこから来るのでしょう。誰が感受するのでしょうか。六根が六塵に触れても、六根自体が感受を生じることはできず、六塵も触自体も感受を生じ得ません。感受は触から来るのではなく、触自体が実体のない虚妄の存在であるため、感受を生むことはできません。不生不滅の種子を持つ存在、つまり如来蔵によって初めて感受が生じるのです。
総じて十二因縁の十二連鎖は全て如来蔵から生じ、各連鎖は次の連鎖の縁となりますが、その根本因は如来蔵にあります。仏が「識が縁となって名色が生じ、名色が縁となって識が生ず」と説かれたように、この識とは阿頼耶識を指します。阿頼耶識は名色に依って顕現し作用し、名色は阿頼耶識(如来蔵)に依って生じ存在するのです。阿頼耶識は名色・色身・五蘊を縁じ(生じさせ)、名色はこの阿頼耶識によって生じるものなのです。
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