如来蔵の体性を知ることは、悟りに等しいものではありません。経典に説かれているものは、自ら悟ったものではなく、自ら悟った内容は必ず経典には存在しません。如来蔵の清浄なる相貌を理解することは、悟りではないのです。如来蔵の清浄なる相貌を見るには、まず如来蔵がどこに存在し、いかに作用し、五陰の運行とどのように調和しているかを知らねばなりません。そうして初めて、運行中の如来蔵の清浄を観察できるのです。経文や他者の説く法義に依って理解した内容は、単なる理解に過ぎず、法を学べば誰でも理解できるもので、何ら特別なものではありません。最も尊いのは自ら観察し証明した真理であり、その言語表現は唯一無二の具体性を有し、曖昧な総論では決してないのです。
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