衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年05月07日    月曜日     第5 回の開示 合計451回の開示

観行覚受の虚妄性

六識が六塵法に触れた後、受と受覚が生じます。衆生はさまざまな受覚を真実であると思い、さまざまな受覚を我であると錯覚し、それらに対して愛着や貪欲、あるいは瞋恚や怨みといった反応を起こします。実際には諸々の受覚は極めて虚妄なもので、識種子が生成したものは、まるで電子が送り出されて形成される電流のように実体がありません。どうして受覚に執着して不善な業行を造作する必要がありましょうか。

電流の生成過程を観察すれば、それが無数の電子の集合流動によって形成され、電子自体も形なく相なく生滅変化するもので、発電機から送出されて電流を形成し、再び発電機に戻ることを知ります。電流とは生滅変異する幻の如きもので、作用を終えれば消滅します。

受覚もまた同様で、何に執着すべきか?何を真に受ける必要があろうか?

第六・第七識心と五識心を観行するに、これらもまた虚妄不実です。いかなる六塵境界を観行するよりも、この心を観行することがはるかに重要です。心が滅すれば諸法も滅します。賊を擒えるにはまず王を制す。識心は諸法の主なるもの。主人を見守れば、牛羊の至る所を走らしむとも構わないのです。

受覚を捉え、受覚を見守れば、思想観念は必然的に浄化され、悪業は必然的に消滅し、不必要な業行は必然的に減少し、内心は次第に清浄となり、煩悩は必然的に薄れ、禅定は必然的に生起し、智慧は必然的に顕現します。身軽く覚安らかで、身心は必然的に変化を起こすのです。どうしてこれを喜ばないことがありましょうか。明日もまたさまざまな受覚に沈溺して抜け出せず、苦悩に苦しみ身心を憔悴させる必要などないのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

世間法と生死の苦は値するか

次の記事 次の記事

千手千眼観音

ページのトップへ戻る