覚分は真覚と妄覚であり、妄覚は前七識を指し、真覚は第八識である。凡夫にとって第八識には自らを省みる機能がなく、故に自証分と証自証分を持たないと言われる。証自証分とは自らの存在を証明し、自らの存在と運行を感知する能力を指す。自らの存在を感知し得る心は我執ある心であり、自認する心であり、自らの存在を自証し得る心である。
意識心は法塵を観じ、境界を観じ、五識と第七識を観じ、明心後に第八識を観じ得る。意識心はまた自らを観じ得るため、自証分のみならず証自証分も有し、法塵の境界を知覚する自らを了知し、自らの運行状態を了知し、自らの心行を了知する。しかし真覚たる第八識には我性がなく、無我の心であり、常に自らを実体と認めず、自らの存在を感知せず、主宰せず、六塵を観じない。故に第八識は六塵において自証分と証自証分を持たない。六塵を覚知しないが故に、境界に対し心を動かさず、想念なく、知見なく、清浄無垢で、煩悩や習気がなく、無明もない。
明心悟道の後、智慧が増長するに従い、第七識と第八識にも証自証分が存在することを観じ得るが、それらは六塵の境界において自らを省みない。大乗仏法を学ぶ総則として、第八識如来蔵は五蘊十八界に属する世俗の心ではなく、我性なき心であり、我と我所の存在を認めない。これに対し七つの識心は全て我性を有し、常に「我が如何」「我と我がもの」と説き、我と我所を有する。
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